文化・芸術

2009年9月28日 (月)

◎岡井隆『けさのことばⅠ・Ⅱ』 2007年12月・2009年・3月刊。

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この数冊は中日新聞の朝刊コラム『けさのことば』2001〜06年連載分をまとめたもの。あとがきに「朝のコラムでありますから、できるだけ明るく前向きの内容をこころがけて...」とある。
 大岡信さんの『折々のうた』や坪内捻典さんの『季節のたより』などと同様に新聞の片隅に120字程度の短い文章で解説感想を加えているもので、たいていの新聞にはこういうコラムがある。内容は短歌、俳句、詩、古今東西の人生訓、箴言など各種である。毎日のことだから数年分だと大変な量になる。これらの本はだから分厚い。巻末の索引を入れるとおよそ600頁。むろんこれでも抜粋なので、1984年から25年間となれば相当な量だ。
「どの路地も海に通じて十二月」
という坪内捻典さんの俳句が載っている。「海は明るくて展望の開ける場所なのだ」と岡井さん。ごく最近、坪内さんと飲む機会があり、「どうですか」「何も変わりませんよ」という会話。いつもそうだが、句風と違って何気ないのがこの俳人(ひと)の特徴だ。マッコリ酒をおすそ分けすると「強いのはあまり飲めないので」と言ってひと口、そのあと麦酒をちびっと。白髪の下の顔はすでに赤い。こんなのもある、
「責めらるればひきしまり、惠まるれば弛む」。
前後があるが、ぼくが崇拝するウィリアム・ブレイクの[地獄の格言]にある言葉だ。岡井さんは「苦悩の人生を生きたブレイクは恵みによってゆったりとする憩いの時を望んでいたのではないか...」と。
 画家ブラックや西行やゲーテやヴィトゲンシュタインのことばもある。文型として小さく読みやすくなっているがぼくはやはり「ニュアンス」の残し方に岡井さんの妙を感じている。答えを用意せず、断じがなく、やさしいのである。朝刊のコラムというのはかくありなん。

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●A5判変型本。ホントはこの判型で他に3種ある。また86年発刊の二巻は四六判変型、三冊めは四六上製とご覧のように全巻まちまちのサイズ。最近の二册は日本伝統文様からそれぞれ「紫陽花」「黒水仙」の図案を使用。二冊ともカバー用紙はクロコGA。見返しや表紙はオリヒメとかシマメとか、ざらついた質感の紙を選んだ。こういう本には当然ながら質感。右は皇室向け特装本。スカーフマチエール紙と本クロスとの背継ぎ装。もちろん普及装もある。

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2009年7月19日 (日)

◎『書物の時間-ヘーゲル・フッサール・ハイデガー』芦田宏直著 1989年 12月刊。

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あるとき調べものをしようと本棚のまえに坐る。すると二層になっている書架の奥から何冊か哲学論文集が現われた。懐かしい顔をもつ数冊だ。たとえば現象学はメルロ・ポンティの「知覚の現象学」を学生時代に読んだきり。身体性の現象云々だったか、今ではほとんど憶えてはいない。確実なことは20歳でしか読めなかっただろうこと、その折の理解はたいへん不十分だったろうということだ。ほとんどの現象学は各々の境界を持ち、重なりあい、また突き放しあっているらしい。ぼくらの「表現」というものの本質もそのようなものだと思う。ぼくは危うくも哲学的に「哲学」の周りを歩いたり、止まったりしているだけなのだろう。いま読むと、この本はポストモダンとのコレ−ションも含まれていて内容もその時点で意欲的。
 最近になって装幀として、これら哲学書の捉え方は「読んでちゃ」とても成り立たないと思うようになった。その点で編集者がいることの意味は大きく、かれへの取材無くばおおよそ装幀など完成しないだろう。
 著者の芦田さんは早稲田大の大学院出、新鋭36歳の本だった。しかしいつものことだが、思い出すのは酒を飲んだことばかり。たしか京都八瀬の温泉から、芦田さんの親戚だったかの貴船の料理屋にまで招かれて、次から次ぎへとまあよく食べよく飲んだものだった。

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●四六判上製カバー装。368頁。カバーはアート紙だが色数は4色、マット加工をしている。表紙はボス、見返し用紙NTラシャ。この頃ぼくの用紙の選び方は特に高価でもなく所謂「普通」だった。但し帯についてはパールインキべた文字白抜きでちょっと贅沢?かも。いま読むと、序と本文についての「ヘーゲルと書物の時間」などは比較的解り易く、門外漢でも成る程と面白い。帯のヘッドコピーは「存在と時間の形而上学をめぐって」とある。いまは亡き澤田都仁氏が考えたのだった。

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2009年7月17日 (金)

◎『雪後集(せつごしゅう)』鈴江幸太郎歌集 1981年7月刊。

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 暫く忙しく働いたせいか、ブログがすっかり留守になっている。なかなか気楽なもんだ。
 この本がはじめての歌集装幀になる、ぼくの記念すべき地味な!一冊。版元は京都の初音書房。編集は土岡忍さん。当時のぼくは歌界に疎く、鈴江幸太郎という著者もその歌の内容についても全く知らなかったが、最初そんなことはどうでもよかった。実家の倒産や手痛い離別で、東京から京都に舞い戻ったぼくには、殆ど諦めかけていた本の仕事がふたたび出来るというだけで満足モノだった。落ち込み感情はまったく無かったし何かが始まる予感もあったから、気分はじつに屈託なかった。本が仕上がると京都近郊の鈴江さん宅に二人伺った。歌人というヒトに会ったのもそれが初めてだった。およそ歌人というヒトたちは「変人」ではなく構えは気難しいが「普通」の視線を持った人々だ、などと言うと「当たり前だろ」と叱られそうだが、その時、歌を詠むという行為やそういう人に、なにか優しく、好ましいものを感じたのだった。こういう雰囲気はぼくの知ってるビジネス化した東京の版画界にはまったく無かったから。
●四六判上製本函入り。函紙(きらびき古染に利休鼠色)の「刷りだし」を印刷所に土岡さんと見に行き「もっとインクを盛って下さい」とか言った記憶がある。土岡さんは驚いていたが、ぼくはそのことに驚いた。今では若い装幀者の活躍も目だつ関西の装幀界だが、70年代の関西の環境は緩く、一部の出版社を除くと、未だ装幀は「絵描きさんの画」か「カバーのデザイン」程度の認識だった。ぼく自身も含め、装幀が本格的に吟味されるにはもうすこし時間がかかったのだ。例によって例の、バブリーな時代はもうすぐそこに来ていた。
★フロク
初音書房のあった東山区本町界隈はぼくが育ったところだった。はじめて訪れた時、道すがら不思議な感慨があった。子どもの頃から顔なじみのうどん屋や、女優の藤山直美さんが学生時代通っていた「井上パン屋」も健在だったし、通園してはいたがよく「脱走?」した保育園などもあってこのタイムスリップはとても懐かしく嬉しいものだった。編集担当の土岡忍さんは一方で白地社という文藝出版社を本格的に始めようという頃だった。歌集のみ造るちいさな「私家版製作処」として初音書房はコンスタントに仕事をこなしていった。打ち合わせが終わると土岡さんは数えきれないほどの麒麟ラガービール大瓶を出してきて、歓待してくれた。それがとうに期限切れのものだと分っても二人で飲み続けるのだったが、まことに旨いなどとは思えない奇妙なテイストだった。

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2009年3月27日 (金)

◎『枝雀のトラベル英会話』 1990年6月刊。

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 本はいろんな処に置かれるはずである。当然飾るためでなく読まれるものであるから、書架を離れ、また戻るにしても、途中では何気なくどこに置かれても不思議ではない。写真を構えて撮らなければ、あるいは観点を変えてみれば、本はまた違う貌を見せる。ということで、ごく卑近な風景のなかに置いてみる。こういう場面にふさわしい本といえば....。
 桂枝雀さんは昭和15年(1940年)神戸生まれ。昭和36年(1961年)に桂米朝さんに入門。神戸大学中退という経歴である。平成11年(1999年)、59才で亡くなった時、突然の訃報で驚いたが全国の落語ファンもショックだったろう。『枝雀のトラベル英会話』はその9年前の仕事になる。
 いきなりだが、この本の打ち上げは東梅田の「呉春」という飲み屋さんでやった。この店は料理も旨いが大阪池田の名酒[呉春]を出す。店の名もそのままである。二階の小さい座敷で枝雀さんを囲んで、創元社編集者の原章さんや落語作家の小佐田定雄さんら4,5人の小宴だった。枝雀さんは最初から麦酒じゃなく[呉春]をコップでぐいぐい飲ルのだったがこりゃあホンマもんの呑んべいだなあと感心したことを思い出す。ぼくは枝雀さんのTVレギュラー番組をよく観ていたしニューヨークで高座をもったりして英語落語の新分野に挑まれていたことも知っていた。でも落語家としての懊悩や厳しく徹底的だったことは、ずっとあとで知った。ぼくらはみな落語を聞いて笑っていただけでよかったのだが....。枝雀さんが逝かれて落語界のお仲間だけでなく、ファンの喪失感はさぞ大きかっただろう、と推測する。それにしても、枝雀さんの落語はつくづく面白い落語でした。
 カバー表紙は写真とイラストの合成だが本文中の、さいわい徹さんの四コマ漫画がこの本のいのちになっている。本文に漫画がたくさんあって楽しい本になっているが、吹き出しのセリフはみな英語だ。構成は左に四コマ漫画、右側に会話の対訳となっている。カバー表紙の顔写真は、創元社のカメラマン村山清さん(じつは製作部長)と二人で何処だったかの劇場へ(忘れてしまったが)出向いて撮らせてもらった。リハーサル休憩中に控え室のある一角での撮影だった。村山さんがカメラを構え、笑う顔のポーズはぼくがキューをだす。「枝雀さん、いきますよ。ハイ、笑ってオーケー!」とやるのである。その度に枝雀さんに笑い顔のポーズをとってもらう。枝雀さんは「笑い顔」が上手い。何回かくり返し、それでご苦労様でしたと終了。「笑ってオーケー」というのはこの本のタイトルに付くサブである。なぜこんな羽目になったか思いだせないが、撮影を仕切るなんて!装幀家はいろいろな経験をしてしまうという、好例?。
 昨年、原さんと呑み屋で死後の魂のゆくえについての談義になった。かれはこんなことを言う人もいる、とことわって「死後の魂はいろいろな魂と混ざりあって一体化しまた別れる...」というのだった。してみると枝雀さんの魂はいったん滅してしまうことになる。いのちは「絶対一回性」と考えるぼくには合致するがちょっと残念な気もする。落語家[枝雀]さんは二度と無い、たとえ再生回帰のようにみえてもやはり「似て非なるもの」なのだろう。
●新書判変型、カバー装200頁。カバー袖コピーに「型破りの英会話本」とある。笑っているうちに英語をおぼえる、というわけだ。ぼくの装幀した数少ない芸能本のうちの一冊。橙色の見返しに青ペンでサインをしてもらった。[倉本修さん江 ありがとうございました 桂枝雀]とある。

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2009年3月14日 (土)

◎『鳥恋行(とりこひかう)』久我田鶴子第六歌集 2007年12月刊。

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 昨年4月、この歌集の出版記念会が神田神保町であった。ぼくも批評会から傍聴させてもらった。パネリストも含めて歌誌『地中海』のお仲間以外にも歌人の方は多士済々であった。幾人かの知己も居たりでその後の宴は楽しいものだったが、ぼくはもっぱら油モノのおつまみを避けて(太るからではなく病の事情から)飲み放題のアルコホルに集中していた。(飲み放題に弱いのは情けないけど...)
 今野寿美さんが批評会で言われたことが頭を巡っていた。話に前後があったとは思うが、要は...この歌集は最初の歌と最後の歌に尽きる...ということだった。いろいろな批評がでたあとでの明快な発言だった。第一歌『雪上につづく足跡ためらひのあとものこして倒木を越ゆ』と最終歌『しなひつよき筋の音してわが頭上かすめ過ぎゆく鴨の五、六羽』。穿ち読めてなるほどとぼくは思ったが今野さんは最後に、装幀が羨ましいです、と言われた。以前今野さんの装幀をした者にとって微妙な話だったが...。
 久我さんには以前からなぜか厳格なイメージがあって、何となくこちらの装幀の「構え」が違うのだった。そういう感触は装幀が堅くなりがちで、今度も逡巡があり、作業が遅れていた。そろそろ装幀に取りかかろうかと思っていた矢先、久我さんご自身に初めて、お会いすることがあった。其の日、上京して砂子屋さんに寄ったら「久我さんが来てるよ」と田村雅之さん。「えっ、(そんなに簡単に言うなよ...)」なぜかまずいなと思った。先入観から苦手意識があったせいか今日はこのまま新宿辺りで呑もうかな、とも。
 話は変わるが、ぼくにはスマスマならぬ[スナスナ]という言葉がある。[砂子屋さんと砂場に行く]ことである。「砂場」というのは近くのお蕎麦屋さん、じつは飲み屋さんを兼ねる。散々飲んでから仕上げに旨い蕎麦を頂く。大体、神田だと「松屋」「薮そば」「砂場」辺りにいく。たまに有名人と出っくわすこともある。ずっとまえ粟屋和雄さんと松屋で昼蕎麦を食べていたら田中康夫さん(政治家になる前)と相席になった。真ん前で釜あげを食べている「やすおちゃん」だ。
 其の日、久我さんと田村さんとぼくとで「砂場」で飲むことになった。最初はどうも、だったが焼きのりからはじまり、天ぷらや卵焼きや焼き鳥と進み、焼きのりのおかわりを頼む頃になってすっかりいい気分になってしまっていた。つまり、麦酒から酒に変わっていたわけで、三人ともすこし酔っぱらって最後にお蕎麦。久我さんにも長い酒に付き合っていただいたが、すっかりリラックスしていい気分で別れた。醒めてみると厳格なイメージはアルコホルで霧散してしまったようだ。あとがきに「沼の底にいて天井にはった氷を意識しているような日々」を過ごされたというが、田村さんと相談して『鳥恋行』装幀に関しては兎に角、あかるさを志向すべし、だった。ここで数首、『過去からの表情をしてひとりゐる子どもはわたしわたしの子供』ここは「トワイライトゾーン」を孕む自己確認がやさしいが『なま焼けの死体の山を見しのみにだれかれの顔蹴りたくなりぬ』ちょっとお、これはもろ刃の痛々しさ。『風は吹き雷鳴りてたちまちに猫降る犬降る 猪、熊も』超現実な絵草子の趣、またはダブルトーンの休息歌として面白う。
 とりあえず危機は去ったが「人は、肉体的にも精神的にもあやうさを抱えて生きている」とあとがきは続く。今野寿美さんの第一歌と最終歌の指摘はその「あやうさ」への美神ミューズの励ましか。『鳥恋行』一冊はこの二首に挟まれた「クガ・タズコサンドウィッチ」。それを頬ばったまま...次へと行くのですね。

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●A5判上製カバー装。216頁。カバーはマーメイド紙、図版に凸凹空押しあり、タイトルは墨つや箔押し。中身は2002〜2006年までの作者の「辛い時期」の作品。装画は「鳥の羽」。具象ではない抽象、鳥の羽が孤立してある意は、じつは妖しく瞑いことかも知れない。ただ繊細に、あくまで綺麗に、そして軽やかに!アブストラクトの本懐なり。
 久我さんとはたまにメールのやりとりをしています。実際は逆ですが、風貌ではなくどうしても久我さんが年上に思えてならないのはなぜ。....どうも失礼しました。

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2009年3月 4日 (水)

◎もうひとつの砂子屋書房。[弧琉球叢書]などの南島本。

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 砂子屋書房の南島書々、総頁数3768pは実際も内容も大変に重い。『宮古のフォークロア』N・ネフスキー著、『南島祭祀歌謡の研究』波照間永吉著、『沖縄久高島のイザイホー』湧上元雄他著、『南島歌謡論』玉城政実著、『沖縄芸能史概論』『沖縄の祭祀と民俗芸能の研究』大城學著、『ムイアニ由来記』『南島小景』崎山多美著、等々。四六判カバー裝からA5判、菊判函入りまで仕様はいろいろだが、いずれも編集者田村雅之さんの胆いりの本たち。
 『南島祭祀歌謡の研究』は著者十数年の調査研究、1128頁に及ぶ歌謡論の大集成。発端は赤坂憲雄さん、田場由美雄さん、田村雅之さんの三人が八重山の島々の夏の祭を調査にやって来たこと。そこでの約束だったらしい。あとがきで波照間さんは「大部な原稿を持ち込まれて田村さんは困惑なさったに違いない」と述懐されている。田村さんという人はぼくの知る限り「短気人?」の典型だが、この原稿待ちに関しては「長気人?」といえる。この本の校正のやりとりも相当スローで変則的だったらしい。書き手も受け取り手も、気長さが産み出した大書といえる。そもそも田村さんは赤坂憲雄さん『異人論序説』や梶木剛さんの『折口信夫の世界』など文化史研究、民俗学研究書の発行に積極的であった。以前から南島を訪れては自ら祭祀研究にも何度も参加されていたようだ。「ようだ」というのはいつ、誰と同行したかが分らないからで、たとえば吉本隆明さんや赤坂憲雄さんなど数人の人しかぼくには思い浮かばない。とにかく造詣は深いものだろうと推察するが「南島」は詩人として、編集者として田村さんの心根にインスパイアするものがあったのだ。酒は避(!)けられぬものとしていつも文化の中心にあるとぼくは思う。ご当地の泡盛や焼酎の凄さを田村さんは人一倍知っているだろうし、大和人(やまとんちゅう)の欠落を彼の「南島」は注がれる泡盛のように満たしてくれるのかも知れない。
 砂子屋書房の20周年記念パーティがお茶の水・山の上ホテルで開かれたとき沖縄からの来賓が謡曲と舞を披露された。ぼくは興味津々だったが宴もたけなわだったせいか場は騒がしく、散漫になり仕方なかった。砂子屋の粟屋和雄さんが呟いた「やまとんちゅうはダメだねえ」ぼくも「そうですねえ」と苦笑し合った。

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●[弧琉球叢書]の判型は一定していない。『宮古のフォークロア』は菊判カバーで本背継ぎ装、『南島祭祀歌謡の研究』は菊判函入りで『詩歌の琉球』は四六判等々。カバージャケットはアート紙も多いが装本の基本は「丈夫につくる」だから表紙本体などは布クロスやレザック系の堅紙でまとめている。いずれにしろ[弧琉球叢書]は詩歌書出版で名を馳せる砂子屋書房のもうひとつの顏です。

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2009年2月27日 (金)

◎『夜の桃』渡英子歌集 2008年12月刊。

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奇しくも馬場あき子さん『太鼓の空間』と同じ発行日になっている。装幀作業はほぼ同じ時期だが2週間ぐらいの開きがあった。目次、「ゆふぐれの手」からの一首「あめいろの打身のあとも剥かれゆき鳥羽玉の夜の桃は匂ふも」あとがきにある表題の歌だがここからだけ装幀をイメージするにはとても難しい。いくらか選んでもらった。その中に「やわらかな瓦のせたる家並の伊予の角なしびとは菜のはな」があった。装幀のやわらかな匂いはただの一面かも知れないがどうやらポイントは其処であるらしかった。テイク1にあった「桃」は姿を消した。あとがきの無い本もいいが、有るのもいい。あとがきによると沖縄から東京へと移られても歌人としての悩みは持越されたようだ。どうやらぼくの苦手な「人がかの地に棲むことの重さ」である。

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 昨年、渡英子さんには東京の花山周子さんの歌集批評会で挨拶を交わした。装幀は先に評論集『詩歌の琉球』(08年6月刊)で先鞭をつけていた。この本のあとがきに「散文のかたちを借りた沖縄への私の相聞歌である」とある。「南島からの視線」という章に司馬遼太郎の『街道をゆく』からの引用がある。「沖縄を知るには困難さが一つある。沖縄のほかに、[沖縄問題]というもう一つの世界がある...」と。これを渡さんは「住む者にとってよく分るもどかしさ」と、ご自分の沖縄での生活体験から述懐されている。渡さんの言うように沖縄人(うちなんちゅう)と「本当の意味で知己になるのは難しい」のかも知れない。その避けて通れないもどかしさと、歌人はどう向き合うのだろう。渡さんが言うように短歌は「....彼我の差異を共有することが不得意な詩型」かも知れない。[うたう]ことは説明を加えることではないが[音]と協奏することは可能だ。和歌に対して八八八六の三十音からなる琉歌は音楽とともに在ったようである。三線(さんしん)の音とともにその四行詩は謡われたのだった。話は変わるが昔大阪の行きつけの飲み屋さんで彫刻家金城実さんとよく出くわすことがあった。最初は恐い人だったが謡が入るとすっかり陽気な踊るおじさんだった。子どもの相談をしたり、彫刻や版画の話をしたり、共通の友人がいたりで「仲良く」なった。先日偶然観た「沖縄戦」を扱ったテレビ番組に出演されていたが、久しぶりだった。元気そうだったがもうお会いする機会はないかも知れない。行きつけの飲みやさんも廃業になったからだが、たまに来阪されるのだろうか...。さらに話は変わるが『詩歌の琉球』編集製作は砂子屋書房社主の田村雅之さんの手になるものである。砂子屋書房の「弧琉球叢書」はこれで7冊目になる。田村さんは沖縄通、どの本も研究書として「重い」労作である。装幀の貌はどうなのか、は次に紹介します。

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●どちらも四六判ハードカバー装、『夜の桃』208頁、『詩歌の琉球』280頁。どちらもタイトルに墨つや箔を使用。『夜の桃』のポイントはちいさな四角形を画像に添って12ヶを浮き出し空押ししたこと。画像に被った部分が効果的だった。このようなことを嫌う向きもあるだろうがやはりここは特異な質感は欲しいところ。『詩歌の琉球』はカバージャケットに沖縄弧文様を縁ぼかし使用した。筋度の高い、がちっとした丈夫な用紙を使った。質感、質感、また質感。


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2009年2月12日 (木)

◎『太鼓の空間』馬場あき子歌集 2008年12月刊

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 馬場あき子さんの最新歌集。さすがの二十二冊目になる。05〜07年2月までの集成。初出一覧をみると短歌雑誌や新聞や通信誌などと多岐にわたっている。
「冬の都市沈黙の澱(おり)のごとき霞に沈みて悪霊のごと嘔吐するあり」「台風は石榴のみのり落としたりつくづくとその酸を嗅ぐ猫」この二首がこの歌集の入口と出口の歌。「悪霊のごと嘔吐する」「その酸を嗅ぐ猫」ともに結句が馬場さんらしいと思うのだがどうだろうか。「つくづく」猫が嗅ぐさまはなにか臭ってきて可愛い、見たことのある光景。「さまざまな駅の時間の中にある昼のカレーのほのかなあはれ」これも「ほのかなあはれ」が好き。「心乱るる」というのもある、「一夜花咲くを見てをりゆるやかに咲ききりたれば心乱るる」
 「一つのことからいろいろのことを思い出し、広げていく方法が、ようやく齢を重ねてきた私にとっては似合わしいように思われるようになりました」とあとがきにある。表題の「太鼓の空間」から一首、「大太鼓一つし打てば一つ跳び五月の寺にゐる青蛙」妙があって、音が聞こえ、色が見え、一寸可笑しくなんとも好き。

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●四六判ハードカバー装、232頁。表紙布クロスはシルキーピンク色、図案は艶けし銀箔押し。カバーのタイトルは墨箔押し。見返しと扉はキュリアスメタルホワイト。このカバーのミソはやはり三本の曲線の浮き箔だろう。マーメイド紙に箔はやはり厳しかった、現場はともかく課題は残った。バックのピンクは最初はただのグラデーションだったが、最終的には少し緑の入った淡い桃空の映像を4色で分解した。本文は勿論、いま一番新しい!活版刷り。


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2009年2月 7日 (土)

○長征社という情熱

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 長征社の主宰、市山隆次さんとは長いつきあいになった。83年に若一光司さんの文藝賞の受賞を祝う会が大阪であり二次会場で若一さんから紹介を受けた。「装幀事務所」の名刺を渡すと市山さんは「ほう、」と言った。「ほう、」というのは名刺に「装幀事務所」があったからだが「関西でめずらしい」と言われたことを憶えている。のちに大阪で岩波の編集者であり装幀家の田村義也さんに渡したときも同じ「ほう、」が返ってきた。ついで「デザイン事務所じゃないんですね」と微笑まれた。この名称はたぶん日本で一つしかないだろうという自負はあった。(それがどーしたの、と言われても仕様がないが)それじゃあデザイン事務所ではないのか?わたくしはデザイナーではないのか?「じつはそうなんです」という「装幀家とブックデザイナーの違い」は長くなるので、また後日。
 さて市山隆次さんだが最初の印象は眼がぎょろっとして太っ腹で海賊みたいだった。失礼な話だがとても出版社の人には見えなかった。今まで見たことのないタイプ、眼光するどい事件記者のようでもあった。後日、西中島南方という地下鉄の駅の近くの事務所に出かけた。新しいエッセイ集の件だった。大きな倉庫のようなワンルームがその海賊の住処(?)だった。段ボールの山と草野球用の野球のバットやミットが目立った。やはり変わった出版社だと思った。名著、北井一夫『新世界物語』で知る人ぞ知る版元だったがその当時は未だ発行本は少なくノンフィクションものでは関西随一になるのはずっと先のこと。ざっと思いつくだけで『ジンバブエ』『シベリアをわたる風』『議会という装置』『私は女』『がんばれコータ』『ジュンパ・ラギ』『陛下にヨロシク』『われら國民學校生』『上海ちゃんぽん』『少女宣言』『瀬戸内海底探査』『望郷のシンフォニー』『父・KOREA』『理想のゆくえ』『ジンバブエ・収穫の秋』『草とり草紙』『トランの国』『走れ藤村』『女・仕事』(順不同)等々…。どれもこれも広範な社会性を孕み人間味に富んだ興味深い本ばかりだ。この本の多くはぼくが装幀させてもらったが懐かしい思いが山ほど詰まっている。
 市山さんは「面白い」と感じた著者やテキストには無類のエネルギーを発揮する。装幀にもきびしい。校門圧死事件を扱った『少女15歳』などは喧々諤々ついに最後にはあらゆる画像はトルだった。質感の強い用紙に大きな墨箔の文字があるだけである。市山さんの強気が心配になったぐらいだ。多くのノンフィクション本はインパクトを求めてショッキングな写真や画像を前面に押し出す。市山さんは本文に写真を数多く入れるが、表紙やカバージャケットはシンプルなものを好む。装幀者はまずその骨太志向と対決しなければならない。市山さんと著者の付き合いも独特だが「喧嘩上等」がその主流にある。「う〜ん成るほど」と唸ることもあるが、「ちょっと違うんじゃないの」と思うこともある。つい部数について忠告してしまったり、装幀者の分をこえて言わずもがなのことだが言ってしまう。知らぬ間にシンパになってしまっている。市山さんの熱さは直球もあれば変化球もあるがかれの球を受けていると必ずしも決め球にならないこともわかる。だからどんどん先へいったのだろうと思う。
 長征社のファンは多い。それは出す本に魅力があるからである。ぼくの知る限り手弁当で編集に参加したいという編集者は一人や二人ではない。読者や編集者をこれ程惹きつける出版社もそうない。しかし、である。「経済」が阻む。どこの出版社もそれに苦慮していることを忘れてはならない。とくにベストセラーやロングセラーを持たない中小の規模だと企画を間違えると致命傷になる。長いこと装幀で関わったから理解できることも多いが、市山さんは人に負担を強いることの辛さでくたくたになっていたと思う。いかに「熱と理由」があろうとも各種圧力を受けるとムリがうまれる。市山さんが病を得るに及んで、全速で奔ってきた長征機関車はいまは停止している。
 長征社出版の魅力は「出したい本を出す」という単刀直入な態度にあると思う。そんなこと無茶だと大抵の人は言うが内心羨んでいるに違いない。それは出版の原点を内包しているからだ。単独だから出来る出版のかたちもあるのだろうし、ゲリラには社会の「撃鉄を起こし引き金をひく」というそれなりの役割がある。ちかごろ流行りの売れるタレント本などは笑止論外。何もかもベストセラー万歳ではないことは猫にでもわかることだニヤア。
 神戸元町のおでん屋で市山さんにご馳走になったことがある。鍋の中の煮詰まった具材は各々が長征社が出した本のようだなと思った。みな味つけは同じで色合いも似ているが口に含むとまったく味が違う。怒りや微笑みをもって、愛情を持って、いまの時代にこそ長征社を待望したい。

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◎『ZIMBBWE ジンバブエ』 1997年10月刊

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 著者の高橋朋子さんは南部アフリカのジンバブエで十数年、暮らしている。原稿は首都ハラレからのファクスで送り続けられたもの。冒頭にある第一章「アフリカの扉」から引用すると「なぜアフリカに来たのか。それはジャマイカで生まれた音楽、レゲェに魅せられたからだ。(中略)その頃ジンバブエは、白人政権ローデシアが、すでに独立を認めたかのように見せかけるためにつくった“ジンバブエ・ローデシア”政府で、ボブ・マーリイはこの年[生き残るもの黒人(SURVIVAL)]というすばらしいLPを発表し、その中で、この独立の戦いを支援する[ジンバブエ]という、美しい虹のようなコーラスで終わる曲を歌っている」とある。高橋さんは音楽プロダクションのデイレクタ−としてさすがに詳しいがとくにレゲェ、ボブ・マーリイの熱烈なファンだ。ボブ・マーリイに捧げる小説家中上健次さんの詩や、マンガ家狩憮麻礼さんの『青の戦士』や、ハイネ・ヘリマ監督の映画「3000年の収穫」についての言及があり、この章の最後にはこう締めくくっている。「アフリカに行ってみよう。新しい音階のような、美しいひびきをもつ国の名、ジンバブエ。アパルトヘイト下から独立を闘いとったという、その国にも行ってみたい」「ボブ・マーリイの歌は、アフリカへの扉だった。その扉の前に立つことができたのは、あの大阪のフェステイバルホールでのコンサートの7年後である」と。そのライブは相当すばらしいものだったようだが、ぼくのレゲェについての不明はともかく「歌が扉を開ける」などとは羨むべき話だと思う。歌のちからが本当に人を動かす、という典型であろう。

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●A5判ソフトカバー3色刷り。268頁。ジンバブエの風景、人々の写真、絵、乗車券やポスターカードなどがワイルドに挿入されていてリポートに立体感を与えている。「人種差別」やいわゆる「混乱のアフリカ」だけでなく人々の身近な生活も理解できる。ちからをもらえるお勧め本。装幀はずばり、カバー、表紙、見返し、帯、厚めの[レザック96オリヒメ]でまとめ、手触り感を重視した。ぼくも気に入っている一冊。続編『ジンバブエ・収穫の秋』は2000年6月に刊行された。その長征社編集部のまえがきには「西側」情報に囚われている日本人のためのリポート、とあった。なるほど。     

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2009年2月 3日 (火)

◎ 『RADIO AM神戸69時間震災報道の記録』  2002年10月刊

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 サブタイトルのように地震当初からのラジオ放送を時系列にそってそのまま活字化している。95年1月17日早朝の出来事。当時のぼくの住んでいた高槻市は京都と大阪の中間点にあった。とても激しい揺れだった。仕事場は七階の古いマンションだったから壁にひび割れができたり食器棚から食器が飛び落ちてみな割れた。本棚はほとんど倒れたしTVやワープロも床に落ちてオシャカになった。仕事場に入ったとき足の踏み場もない状態で、ここに居なくてよかった、これは大変な被害だと思った。
 神戸は「それどころじゃない」ことを後で知ったが最初まったく情報がなく「死者が何人かでたらしい」ぐらいの話だったのだ。結局死者6400人以上という大災害だったが現場ラジオで69時間も放送し続けていたことは全く知らなかった。「奇跡的に生きていたリクエスト用の専用電話を介して」被災した人たちの救援放送局としてAM神戸は機能した。あとがきに「あの混乱のなかでは「確認」作業が非常に難しかった」とあるようにあえて誤報のあったことも含めて再現している。一人のリスナーとの自然発生的な交信で始まるこの記録はあの地震のなにもかもを語っているようだ。アナザ−サイドということもあるが自然災害に遭遇したときの助け合う人々の肉声が聞こえるようだ。この本はただ貴重な記録というだけではなく放送局の人たち自身の救援活動も含めて結局は「人が生きる」ことのちからを示唆しているように思えてならない。ぼくはこの本の内容に関わったすべての人に心からの敬意を表したい。

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●A4判ソフトカバー、ボール函入り。この本の要は何より本文。じっ懇の、長征社の市山隆次さん、大石十三夫さんの仕事。2段組で280頁。写真のように11級のちいさな文字がびっしり詰まっていて圧倒される。カバーも函もマットインキ1色使用。装幀者としてはどうしても無地に墨1色の構えしか思いつかなかった。地震後、暫くそれに関する装幀依頼は多かったがどの本も失われた人への痛切な思いがこもっていた。この記録が決定的なのはアナザ−サイドでありながら地震災害の本質があらわになっている点にあると思う。それは時として残酷だがそれも「情報」というもののかたち、彼我が共有する絶対時間のなのだから...。社屋内停電直後、十数分から始まり69時間、絶望と励ましが人の心に訴え続けたこととはいったい災害のことだけだったのか...メディア関係の人だけでなく、誰もが図書館で是非読んでみて、感じて欲しい一冊だと思う。この本は2003年の第37回造本装幀コンクールで部門賞(その部門での最優秀の本)を受賞した。これ、すなわち「本文」に与えられたものであるとぼくは確信する。

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2008年12月17日 (水)

◎ドローイング『次は20,002から』季刊磁場19号 1979年8月掲載発行

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 三嶋典東さんとの合作素描。国文社の『磁場』は当時の硬派雑誌だ。編集長は田村雅之さん。目次を見ると、吉本隆明さんをはじめ桶谷秀昭さん菅谷規矩雄さん中桐雅夫さん松本健一さん、詩人鮎川信夫さんもいる。永瀬清子さんは随筆『仲町貞子さんのこと』を連載している。この明治生まれの仲町貞子さんの貴重な作品集成(小説、随筆、雑記)は91年11月に砂子屋書房から全集として発行された。ぼくが装幀者として関わったがこの本の話はまた別稿にしたい。
 さて、合作ドローイングのことだが、1万から2万まで数字だけを連続して描き続けるというこの恐るべき作業は、その年の初夏の一日を利用して三嶋さんの西船橋のレールサイドスタジオで行なわれた。前年の『次は10,001から』の続編だった。前作もそうだったが、午後から始めて次の日の朝方まで(食事時間を抜くと)14時間をぶっ通しで作業したことになる。終盤はもうふらふらだったが若かったせいもあって眼や手はしっかり機能したものだった。最終的に、剣術でいえばぼくが[上段の構え]、三嶋さんが[下段の構え]にレイアウトされている。
 これには最初約束事があり「不可抗力を除き、飛ばさないで確実に1から10,000までの数字を描こう」ということであった。前作のこの取り決めはその日も有効だった。恐るべき作業と云ったのはインク壺とさしペンを使ってちいさな数字を水彩紙に描き続けること、その単調さが描き手の精神や身体に想像以上のプレッシャーを強いるということだった。ぼくらはこの神経衰弱のような作業に捉えられ熱中していたといえるが、終始三嶋さんのリードによってそれは見事に「結実、達成」されたのだった。作業中、山口百恵の歌やジャズ音楽などがスタジオに流された。広いスタジオのまん中に大型の丸テーブルが在り二人向きあっての作業。今から思うと新鮮で劇的な連続花火のような時間だった。
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 三嶋さんはグラフィックデザイナー粟津潔さんの助手時代があると聞いたがこの細密で大胆さをもつという「真摯で馬鹿げた」行為はもしかしたらその辺りにルーツがあるのかも知れない。唯一の休憩である夕飯にすこぶる立派なちらし寿司を注文してもらいスタジオでご馳走になった。当時三嶋さんはぼくにとっては一種憧れ的存在だった。国文社や冬樹社などの売れっ子装幀者だったからだが、ぼくがまだ油絵を描いていた時分である。そのカッコイイ装幀はぼくにはいつも新鮮な驚きだった。たとえば遡ると詩集『死者の鞭』(佐々木幹郎著)の三嶋装幀は(タイトルや目次まで手書き!)まさに歴史に残る傑作だった。本は装幀だけが美しければ良いというようなものではない、時代の情緒やテキストの映像としての表現でなければダメだということをこの装幀はあらためて教えてくれる。むろんそういう「内容」と出会える装幀者の幸運というものもある。何にせよその場に「在る」ことが大切なことなのだ。紛争の時代、京都大学の西部講堂の三嶋さんの壁画をみて装幀者を決めたんだと、あとで佐々木幹郎さんから聞いた。60年代末、ノンセクトラジカル!などと言っていた頃の話である。
 一度三嶋さんの手伝いをしたことがある。かの石岡瑛子さん、今ではアカデミー賞や斬新なコラボで知られる世界的なデザイナー。当時ぼくがファンだった女優フェイ・ダナウェイの友人としてぼくは承知していた。(フェイ、エイコと呼び合っている仲と聞いた、凄い!)石岡さんの事務所で作品整理の助っ人を頼まれた三嶋さん、その三嶋さんの手伝いがぼく。一緒に五反田の石岡さんのスタジオに出かけた。石岡さんは丁度パルコだったか沢田研二のヌードポスターのデレクションの最中だった。カメラマンやセカンドデザイナー、アシストの女子学生らが颯爽と動き回っているスタジオの厳しい空気は忘れられない。
 石岡さんがニューヨークの近代美術館(だったと思う)で、英語で講演するという。その折り使用するスライズのための作品整理が三嶋さんとぼくの仕事だった。別室で石岡さんの装幀書籍を選びだす作業。なるほど三嶋さんに頼むわけだとその時思った。石岡さんが笑み「三嶋さんは文学青年だから...」と言われたことと合わせて納得だった。このような小さな記憶だが日記をつけるでもなく99%確かに記憶しているのは我ながら凄い!と思うのだがどうだろう。まだぼけは遠い。
 一回目の試み、ドローイング『次は10,001から』は京都のギャラリーでのぼくの個展で発表させてもらった。その頃の京都新聞に「息つまるような二人の素描」という評が載ったが当時から生意気だったぼくはうん、批評はまあまあだな、と友人たちに言っていた。
 今、あの十数時間をもう一度やれといわれれば死ぬかも知れないなと思うのだが...三嶋さんは如何だろう、武蔵野美大の教授ではもはや時間がとれないのでしょうね。でも記憶しておきます。邂逅と友情が孕むふりかえる時間こそが未来に輝きを与え続けてくれると思うから。 
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●『磁場』1〜20号 A5判 130頁前後。表紙・目次構成は三嶋さん、表紙版画は野田哲也さん、目次カットは萩久保和征さん。(萩久保さんの銅版画集『黄金のうたた寝』を貰ったぼくは、それに刺激され自分の画集『一本の指もまた立っている』を上梓したいきさつがある)『次は20,002から』は最終頁の折り込み付録みたいな感じで挿入されている。(原寸70×21cm五っ折り)先日、田村さんにどうしてこんなドローイングを載せたか聞いてみたら廃刊間近だったので「もう何でもやっちゃえ」ということだったらしい。田村流発言に笑ってしまったが、やっぱり編集長は思いきりが肝心ですねえ。

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2008年10月30日 (木)

◎ロルカ『ジプシー歌集』注釈  ◎ロルカ『ガルシア・ロルカの世界』1998年8/9月刊行

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 此の二冊の本は生誕100年記念ということで出版された。『ジプシー歌集』注釈は小海永二氏である。小海さんはH.ミショーの訳者として知られているがぼくは旧知である。ぼくの75年詩画集アンリミショー『魔法の国にて抄』の訳者でもある。横浜国立大のプロフェッサーだった頃、広尾だったか、お家を訪ねたこともあるが今もお元気なのであろうか...。
 スペインの吟遊詩人ロルカ『ジプシー歌集』についてたいへん売れた詩集ということ、スペイン全土でこれほど詩集が売れたことは無かったそうでグラナダやマドリッドでは多くの批評家の絶賛をうけた。その人気は普段、詩を読まない人々に巷で朗読されるほどだったが友人の画家ダリは「旧い形式」に縛られた「古い詩」だと痛烈だったそうである。ダリの影響もあってロルカの詩は変遷していくのだがこの本の巻末付録にロルカ自身の講演原稿があり『ジプシー歌集』の自作解説をしている。ダリほどではないが痛烈に批判したい[詩や詩人]はぼくにもあるが友人でもないから言えないなあ、やはり。ロルカの『ジプシー歌集』はボードレール『悪の華』とランボー『地獄の一季節』などと並び世界中に研究者を多く擁していると、あとがきにある。ぼくも3册とも研究とまではいかないがよく読んだくちである。
●A5判上製本。320頁の厚みを持つ。イラストはロルカ自身の素描を使った、金箔押しである。表紙はサンド、見返しはJフェルト。扉はカラーサンド、カバーはOKしろもの、いつもはマットな加工だったがこのときばかりは表面はグロスコートをしている。イスパニア叢書3。

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●赤い本(四六判ソフトカバー)は『ガルシア・ロルカの世界』イスパニア叢書2。32人の文章を3人の編者が編纂したもの。松永伍一さんやいまヒット中の時代小説家、佐伯泰英さんや女優の(故)岸田今日子さんらの文章もみえる。むろん小海さんも。やはりロルカは人気詩人ですね。帯に「ガルシア・ロルカは二度死んだ詩人であった。一度は彼自身の詩の中で死に、二度目は、スペインの内乱で、フランコ軍に処刑されて死んだ...」と寺山修司「黙示録のスペイン」からの抜粋がある。真っ赤な本にしたのはこのオビ原稿に刺激されたから...。ともかく「赤い本」にと。

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2008年10月29日 (水)

◎『D.H.ロレンス絵画作品集』河野哲二著[普及版]2004年9月刊行

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 大きなサイズ、全ページカラー版。デザイナーとしては「しんどかったあ〜」がホンネの たいへんな本でした。河野哲二さんの希望は「緑と赤」の使用、これは「ロレンスを表現するためのロレンス自身の色彩」だ。あとはすべておまかせということだった。カバーに使用した「タンポポ」と題される水彩画は最初見たときからこれを使おうと直感、ラフで見せたら編集の谷川豊さんも問題なしとのこと。密集したタンポポに立小便する男の絵だ。本文には見開き頁で村山槐多の油彩「尿する裸僧」を挿入。二枚の絵が向き合うこととなった。解説には、此の絵は信濃デッサン館蔵のもので館長の窪島誠一郎さんのご厚意による、とある。此処で窪島さんとロレンスがまさか結びつくとは思わなかった。ずっと前の筑摩書房の『父への手紙』に関わっていたぼくは「不思議」を感じないわけにはいかない。河野さんは二人の画家の共通点をたとえば「赤」という色彩で結ぶ。槐多は「世界は赤」といい、ロレンスは「神聖な生命」を感じるわけである。後期代表作『チャタレ−夫人の恋人』は有名だが「去勢された精神に衝撃を与える」ため猥褻語を盛ったとしても、これを「猥褻作品」と言うかね、とずっと思っていたが河野さんに話を伺ってさらに確信した。此の絵も本質的な「生命力」を、その陰翳を示唆していると...。ぼくも「ホモセクシャル」をテーマに素描表現して冊子の表紙を飾ったこともある。探せばあると思うが『四階』という詩の冊子。涸沢純平、阪本周三、大西隆志とぼくの四人。数冊で休刊にはなったが表紙はユーモラスで自分ではお気に入りだった、(けっして下品でない)男性器のドローイングである。(すこしデ・ク−ニングにタッチが似ているかも...)

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●B4判変型。400数ページ、背巾は45ミリもある角背本だ。組版の大石十三夫さんの後ろで、ああだこうだと言って仕上げたが迷いが不思議と無かった。大石さんも適確に写真を割り付けていく。いいコンビネーションワーク。写真図版も多く解像度にも粗密はあったがレイアウト自体スムーズな作業だった。表紙は黄色のスカーフマチエール紙、見返しはジャンフェルト赤、カバージャケットには暗赤色、暗緑色をふんだんに使っている。たいへんな本である。

◎『D.H.ロレンス絵画作品集』河野哲二著[豪華版]2004年9月刊行

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 もっとたいへんな本。羊皮を全面仕様。本金箔での三方金である。キラキラ、キラキラ、の中に二本のスピン入り。東京は並木製本の高橋正吉さんの製本。高橋さんのご厚意で本金箔になった。ラッキーだった。[豪華版]というがこういう稀覯本の仕事はやはりめったに出来ない仕事である。やはりラッキーだった。
●本文は[普及版]の抜き刷りを流用した。貼り奥付。関連書籍や関係図版など豊富でロレンス研究書の大労作だがそれもこれも河野先生の情熱の勝利と言える。京都での出版記念会は奥様をまじえて乾杯!乾杯!の連呼だった。

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◎『父への手紙』窪島誠一郎著[初版]1981年2月刊行

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 帯文に「実の父を求め歩いた幾年月。ついに探し当てたその人は....」とある。20年の親さがしの末、実の父親である作家水上勉さんに辿りつくまでの著者の不安や苦悩が綴られている...などといえば簡単過ぎる話だがそれは大変な道のりだったとぼくには想像出来る。育ての義父母へのこころの葛藤をこえて最後に淡々と書かれる父「ミズカミツトム」への手紙にぼくは乾いていく涙というものを感じた。20年そっくり、父への告白。あとがきにもあるようにこの本自体が「父への手紙」であるのだろう。
 事情は違うがぼくも父親というものを知らないで育ち、里子にだされた経験をもつ。ぼくが産まれるとすぐ父は亡くなったからだ。何度も戦地に駆り出されせっかく生きて帰ったのに、せっかく男子を授かったのに父はあっけなく死んだ。だから江東区深川木場という処は母は嫌いらしい。ぼくの生地はそのままかれの死地、ぼくの誕生はそのままかれの死だった。木材会社の父の同僚たちが葬儀をしてくれた。その折、乳飲み子を引き取ろうという近所の親しい人々に母は迷った。母は京都の親戚を頼ってよちよち歩きの姉だけを連れていこうと思ったらしい。当時の日本人社会ならあり得ることだったろう。母は女学校を出てすぐの独身時代から外地で郵便局員や雑誌記者などを経験しているいわゆる「職業婦人」だったから何としてでも職につきたかった。そのためにはぼくが足手まといだったのだろう。此んな子はいらないから夫を返して欲しいと思ったと、後で聞いた。泣ける話であるが、ぼくとしては怨まれても仕様のないことだった。いまは、おかげさまで、と言うしかない。悩んだあげく母はぼくも一緒に京都に連れていったが、京都市での里親制度(京都府知事蜷川虎三氏の時代)というのに「ぼく」を申し込んだ。いよいよ行く先が決まった時、母は泣いたが同時にファイトも湧いたそうだ。その辺りが「戦後昭和の女」の凄みというものだろう。そこにはか弱い後家などというイメージは微塵もない。猛然と怒り狂うドラゴン(ちょっと違うかも)の感じに近い?だろうか。ところで預けられた子どもたちはみなで5人(たぶん)ぐらいだった。ナカムラさんという家で一緒に寝起きするのだがなんか暑苦しい感じがあった。京都の色町に近い狭い路地にある一軒家だったと記憶する。まだ胃腸も未熟な子どもに堅いめしである。それやこれやで、おかげで離乳に失敗したと、あとで母から聞いた。失敗?このことはあとあとの生活に相当影響するのだが、長くなるのでまた別の機会にいたしましょう。ともかくその頃のどの家庭にもあったドラマチックな話は沢山あります。
●四六判上製本。カバー、扉に挿画。早熟なぼくの水彩画だが、たぶんその頃の筑摩書房製作部の誰かによる装本だと思う。中島かほるさんかも知れない。暫くお会いしてないが中島さんとは旧い仲で、いろいろなエピソードがこれまた満載だが。当時、筑摩製作部にはいろんなデザイナーがいて社内装幀の層が厚かった。。窪島さんのこの本のことを河野哲二さん(D.H.ロレンス本著者)からお聞きして慌てて探したが無い。今では失くしてしまった本の一冊であった。ネットでやっとみつけたがおそらく今では改編新版や続編がどこからか出ているに違いないと思うのだがその後をぼくは知らない。

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2008年10月 9日 (木)

◎『天使のささやき』植島啓司著 1993年発刊。

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 「宗教・陶酔・不思議の研究」とサブが付いている。ぼくにとっては懐かしく印象的な一冊だ。旧い本だがいまでも新品、キラキラしているジャケット(これにはちょっとした新発見があるが…)、ベルニ-ニの聖テレサのエクスタシーの表情が帯に隠れる下方にある。「色っぽい装幀」になったのはそれは植島さんが持って来た資料写真が「色っぽい」からでありテキストからすると自然なのだった。何冊もの洋書(数百点の写真)を編集者の落合祥尭さんから受け取った時「これは大変な仕事になる」と直感したが資料はそれなりに愉しめた。エロチックな写真も哲学的な写真もすべて自分で選ぶ。本文には200点以上の写真を挿入、本文フォーマットも数種用意したがまに合わずかなり変則的に変化していった。落合さんは編集者として印刷関係にも著者にも装幀者にも大変苦労された。そのストレスは大変だったろうと思う。巻末に写真図版の引用クレジットがある。著者撮影となっている数点のなかにぼくのバリ島で撮った写真もじつはある。挿入点数の多い仕事はたいへんだけど断るわけにはいかない。装幀という仕事はたんなる「表紙をつくる」などではけっしてないのだから...。 ベルニ-ニの「聖テレサの法悦」は彫刻作品として有名だが神秘学研究にも必ず聖テレサの名が出てくる。植島さんは宗教学者だ。これをジャケットに使って欲しいということは当然のなりゆきだった。植島さんは中沢新一さんらと東大三羽がらすと言うことを聞いていたので「おつき合いはどうですか」と聞いてみた。そんな話はしたくないねというサラリとした感じだったがこと競馬の話になると「生きている実感」「[賭け]ている時だけ生きている意味を感じる」などと熱が入るのだった。植島さんの競馬の成果であるマンションに落合さんと訪ねたこともある。「ほう~これが万馬券で~」と妙に感心した。関西大学の研究室よりうんと綺麗だった。ぼくはまったくばくち打ちではないし能力もゼロだ。だから一獲千金は羨ましくも大したものだと思うのである。 綺麗な本が苦労の末、出来た。もはや冬だった。近くの飲み屋に植島さんが案内してくれて落合さんと三人で乾杯した。ぼくへの本のサインに「愛をこめて」と書いてあった。じつに植島さんにしか似合わないキザキザ言葉だと思った。「よくこんな色っぽい装幀を~」とも言われたが植島さん、あなたこそ色っぽいですよね。 Honbun

●四六判上製本。カバー4色+タイトル金箔押し。スピンは黄色。まだコンピューターを使ってない時代の装幀だから文字はすべて写研の写植だ。アシスタントが当時何人か在たが切り貼りはすべて自分でやっていた。手仕事はまったく苦にならず嫌いじゃなかった。「これにはちょっとした新発見がある」と云ったがカバージャケットの用紙のシェルリンヘアラインはもともと、きら引きの紙でその上プレスコートという加工をしているから延々と「ひかる」のである。おそらく何十年の単位でひかり続けるだろうがこんな邪道を行なう無茶な装幀者はそういないのではと思う。すべてはコストに反映し版元を苦しめ、落合さんを困らせたのだった、と想像するが...。

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2008年10月 7日 (火)

◎前 登志夫歌集『流轉(るてん)』、『鳥總立(とぶさだて)』2002~2003年発刊。

Mae1 Mae06  先般亡くなられた前 登志夫さん。装幀については一つ一つ「少々お疲れのご様子」とか「優れた装幀に感謝」とか葉書をいただく。短くて明快な感想はさすが。先の何かのセミナーで前川佐重郎さんが前さんの代講をされた。それによると「たまに瓢と吉野の山から降りて酒をおおいに飲んで」帰られるとか。随分面白い人だったようだ。袖すり合うことはあったと思うが挨拶は交わしていない。ぼくは童顔なのでたいてい歳若くみられてしまう。あるとき栗木京子さんにお会いした時「こんなお若い方だったの」と言われてしまったが栗木さんよりぼくが歳上です。栗木さんだけでなく、まあいつものことですがちょっと挨拶は億劫になりがち、まあいいや、「老人らしい渋き装幀者」として生きるべきだろうね、神経痛だし。 『流轉』はイメージで勝負、『鳥總立』は思考で勝負。往々にして前者は綺麗であり人気があり後者ははて?となる。菊池信義さんの装幀、吉本隆明『マス・イメージ論』は後者装幀の成功例だろう。吉本さんも感心しておられた。カバーに「吉本」という印鑑が唯一の色ものとして小さく押してある。見事だが「美しい装幀」ではない「内容の映像」として印象的な傑作装幀といえる。また学んでしまった。

●二冊ともに菊判上製本カバー。A5より天が大きく風格の判型だがこの本の顔の大きさは独特だ。『流轉』は樹々を木口に映したようなイメージ。『鳥總立』は木こりの儀式、木口のうえの枝のイメージ。しかけがあって、赤金色の枝が浮き出しの凸版で盛り上がっている。写真で判るかどうか...。ダックスカーフという紙クロスをカバーに使用している。浮き出しは技術的に困難をともなう紙だがどーしても質感が欲しかった。質感のない何処かでみたようなイメージだけのいやな装幀が跋扈しているように思える今日この頃です。えっ、あんたもだって?そんな人にはノーコメント。 

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2008年10月 4日 (土)

◎‘96『麗』鹿井いつ子歌集 ‘99『十九世紀亭』加藤孝男歌集

Uraa19seiki_『架空荘園』と同型艦、いや同型本です。『架空荘園』は人気の高い判型です。表紙図案は鹿井さんのはモリスで加藤さんのはご自分が用意された旧麦酒のラベルです。カバーなしの表紙背つぎ。持ってみるとわかるがコンパクトでよく掌に馴染む。画一的なワンパターンが多い昨今の造本の中では、ある意味理想的な判型と思うがどうだろう。それこそハンドバックに入れて持ち歩いて喫茶店などで読んでいると、とてもオシャレだと思うが...。いや余計なことを言いましたね。

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◎紀野恵歌集 三冊。 1995~2004年発刊。

Kino02_2 ‘95『架空荘園』‘99『La Vacanza 』‘04『午後の音楽』。この三冊は背つぎ装本、判型ともに同じ、所謂同型本。「フムフムランドの桂冠詩人 キノメグミ」のネームでの序に「フムフムランドはつねに眼前に在り」とある。ふむふむ....。聞きしにまさる「美」へのラブレター、好きな一首。「花を看よわたくしを看よ希れなるや今生といふ春は希れなり」 そうとう以前に何かのパーテイでお会いした。『架空荘園』の装幀....「気に入っていますよ」とちいさな声で。『架空荘園』はMORIS、『La Vacanza 』はPULVIRENTI,『午後の音楽』はL’ART POUR TOUS、とすべて洋モノ。こういう本はことのほか花ぎれやスピン(栞)が大事だと思う。

●四六変型判、本背つぎ、カバーなし上製本。コパー箔やブルーメタル箔が新しい。

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2008年9月30日 (火)

◎岡井隆第二十四歌集 『馴鹿(トナカイ)時代今か来向かふ-限定版-』2004年10月発刊

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.....ぼくが、この歌集を編んで、出さうとしてゐるとき「静かな場所」に坐ってゐるのを感ずる。今まで以上に静かな、「歌集の置かれる場所」がある。林のなかの木洩れ日の下の石のやうな場所だ。ぼくは誰にも知られることのない、その石の上に、この歌集を置く.....  「巻末記」と題された、少し長い「あとがき」の冒頭部である。 岡井さんの心境はつぎに「文芸が社会に対して一定の働きかけをした時代は、もう大分まえに終った。ぼくの本は、ぼくの周辺の限られた人にとってだけ意味がある。ごく個人的な事件として、この本は世に出るわけだ」と続く。本人が一冊、伴侶に一冊。それだけで足りるとも書かれている。 岡井さんには工芸的な稀覯本がないらしい。三方金や皮ばりの豪華本はその是非はともかく....  砂子屋書房の田村雅之さんから挿画用の膨大な数の版画制作の依頼電話があったとき「ぼ、ぼくを死なせるつもりか?」と思わず言ってしまった。忙しく雑多な今の状況ではとてもムリだと思った。だがすこし「表現」に対して欲求不満も溜まっていたこともあって、(安請け合いしたつもりはないが)話は早々と決まった。依頼といってもほとんどの装本のパーツは自分で決めなければならない。 ともかくスケッチを始めた。何色刷りでいくのかは未定だが2、3色だろうか、それ以上になるとそれこそ大変なことになる。2000枚以上、まさか全部自刷りなんてあり得ない。刷り師の手を借りるしかない。そもそも版画を何点挿入するのか?そして版画だけでなくそれに添った、凝った装本も考えなければならない。岡井さんは明治時代のイメージを考えぼくは昭和の初期を思った。昭和3年の図案(著者生誕の年)を調べてみるとまだアールヌーボウの影響が強く息づいている。多様だがおそらくどれも大正期に流行ったスタイルだ。表紙の花図案や扉の図案はこの方向できまりかなと思った。 版画の進行は遅々として進まず、装本のプランだけが固まっていった。一ヶ月ほど経った頃。そのうちに木版でのそれこそ「木洩れ日の下の石のやうな場所」に相応しいかたちがやっとみえてきた。材料やイメージも固まった。まず木版画を制作、それを分版原稿にして金版をつくりプレスで刷ると決めた。画は3種類、各々3版刷りとして、ヤレ(ミスP)をいれるとおよそだが少なくとも2500枚。3版だから刷り数は7500回、またはそれ以上。気が遠くなるような数だ。とても手刷りというわけにはいかない。木は小口木版のような堅牢な版木でもそうモツものではないからだ。

(この版画の刷りについての詳しいものがたりは、次項で)

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●四六判上製本函入り。表紙はバクラムの本背継ぎ。函は二種類のキュリアスメタル紙を中央で継いでいる。天金、紅白の組み花切れに銀色のスピン。問題は貼りあわせ段違いになった、つまり平坦でない面への箔押し。裏面の社印なども技術者泣かせ。いいかげんやり過ぎよって言われたが、よくぞ、感謝!感謝!感謝!  普及本の方は四六判上製カバー装。2色+1箔。    

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◎『馴鹿時代今か来向かふ』限定800部のための版画の刷り刷りものがたり

Tonakai  -中略-本自体の定価も押さえることになっていたから、テストプリント以外、ドイツの活版用小型ハイデル機を使ってみようと思いたつ。活版用ハイデル機はむかし東京で一度お目にかかったことがあるがその人間的な動きを思いだした。小型だが頬ずりしたくなるような名機中の名機。だがこのちいさな活版印刷機を持っているところはいまは少ない。京都でこれを使える竹澤敏夫さんという職人さんをそれこそ探偵のようにして、やっとみつけた。あとは交渉だがそんな仕事の経験がないとおっしゃる。ぜんぶ付き添いますからということでなんとか了承を得た。1日仕事である。わざわざ1日開けてもらい取りかかった。あらかじめ取り寄せた、きずき刷毛つき紙で試刷りをおこなう。インク台で凸版用インクを何色か練り合わせる、久し振りのインク作りだ。昔リトグラフをやっていた頃にインク練りは経験済み。エッチングのような小型缶ではなくオフセットなどの大型缶から無駄のないようにヘラを使って慎重にとりだす。素人がやると必ずインクが作業台に広がり過ぎる。久し振りに苦労して何色か混色するがなかなかいい色がでない。しばらく格闘してやっと1色。竹澤さんに刷り始めてもらうが、色が変化し紙にもうまくのらない。やり直しでインクの量が増えていく。心配していたムダがもう出来てしまった。作業続行だがどうも刷り圧が足らない。限界までもっとパッキンを足してもらう。何度か刷ってみてしっかりとインクがつくようになった。すでに何時間も経っていた。再開までの小休止の間、とてつもない絶望感がおそう。まだ一枚も決定刷りがないのだから...。竹澤さんも大丈夫かいなと心配気味だ。しかしやらねばならない。2版、3版、4版目と進んでいく。インク台のまわりは拭き取ったインク汚れの布やヤレ紙でいっぱいになる。なんとか最後の版にたどり着いたがもうくたくたである。なんとかメドはたったが時間もすでに限界だ。残りの刷りを次回にもち越すことにする。竹澤さんの予定を聞くが、なんとか週明けに都合をつけてもらえた。感謝である。-中略-  さて再開するとまるで事情が違っていた。曇りのち晴れ、それも快晴だ。竹澤さんも研究されていてアイデアもだしていただけた。色出しも刷りも順調でヤレも少なくて済んだ。最後にサインして落款を押して差し上げたが、何よりも共同作業の完遂を二人は喜んだのだった。突然来訪のおかしな奴だと思われたかも知れないが小生満足であった....  絵師がいて彫り師がいて刷り師がいて版元がいた江戸の浮世絵を思う。「書籍」も合作でしか産まれない。一冊の書籍にはいろんな部門の人が関わっている。いいコンビネーションが「内容の映像」である上出来の本をつくりあげるのだ。そして、装幀家平野甲賀さんの「一人だけ頑張り過ぎない」の意味がつくづくわかる、今日この頃であります。 ところでこの本にはご褒美があった。この本が読売文学賞を受賞したこともそうだが。岡井さんに版画を送ったところ墨紙をいただいた。「うるはしき版画を賜ひぬ馴鹿の 車のわたち深まれとこそ」倉本修氏に感謝をこめて...と添えてあった。しみじみとした味わい深い達筆だった。

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2008年9月18日 (木)

◎『ぱしゅみな』など14点 2000〜06年刊行

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 オフセット印刷物から起こした写真なのでどうも「荒れて」いる。馬場あき子歌集『飛天の道』、平塚宣子歌集『ぱしゅみな』、板倉玲二遺歌集『グレゴリオ聖歌』、岡井隆歌集『臓器』(装画今井祝雄)、小池光歌集『静物』、三枝浩樹歌集『歩行者』、『葛原妙子全歌集』、『前川佐美雄全集』、島田幸典歌集『no news』、塚本邦雄著『百珠百華』、大辻隆弘歌集『デプス』、前登志夫歌集『流轉』、合田千鶴歌集『The Morning After』、飯島耕一詩集『小説平賀源内』全14册。どれもこれも思いのある砂子屋さんの上出来製本。そのうち2点が「造本装幀コンクール」の受賞作。ライプチッヒの「世界で最も美しい本」展に出品された。製本は本のいのちだが一般的にいって手業はうまく後代に伝承されにくいもののようだ。それでは困るのだが...。
 これらの製本はすべて並木製本、高橋正吉さんの高品質な仕事である。以前新宿区にある仕事場にもお邪魔したことがあるが、業が慣れ染み込んだ器械類は近づきがたく底光りしていたのだった。 
 手仕事の極致、ヤイリギターの製作者の矢入一男さん、戦場いや、職場に掲げている大きな墨書きの銘は「高品質より我ら生きる道なし」。高品質とは何か。たとえば戦国時代の高品質な集団それは...。(盛り上がってきましたな)
 鉄砲武装した織田徳川連合の大軍を撃退した紀州の鉄砲集団雑賀党の優秀さこそ「高品質」にほかならない。かれらは射撃を工夫し技を磨きそれを常方訓練としていた。騨込めから発射それをくり返すはやさ、射撃の正確さは天下無双だった。その結果「小さな鉄工所」が「大企業」を制したのだ。古来、雑とは鉄、賀とは処(ところ)を指す。むろん歴史が示すように本願寺に準じた雑賀党はいずれ戦場を離脱。戦の帰趨は時には残酷だ。しかし雑賀党が大軍に降りたとしてもその技術は生き残った。かれらは「高品質より我ら生きる道なし」とやはり掲げるに違いない。それが高品質という生き〈残るもの〉の強さである。代々の名乗り「雑賀孫一」姓はその優秀な集団を率いる頭領の称号だ。そしてかれらがいかに少数集団であろうがその「高品質」は無能な大集団をはるかに凌駕するものであった。
 話はそうとう強引に脱線したが「製本」は書籍のいのち、ということは忘れてはならないということなんですが。
●四六判、A5判、菊判といろいろ。全集以外はすべて上製本カバー装。帯はすべてはずして撮影している。

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2008年9月14日 (日)

◎新聞カラーイラスト 2007〜2008年『倉橋健一の詩集を読む』より

Irasuto

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 現在、一年以上も朝日新聞の月1連載イラストをやっている。最初もともとの新聞紙の色ゆえだが沈み退色が起った。それを防ぐため新聞紙用のカラーチャートをつくりなんとか解決したが微妙な調子はこの際捨てねばならないことを痛感した。インパクト、それを求めた結果がカラフルになった第一の理由だったがこちらの気分や感情の変化もあった。「挿絵の意味」というやつだ。紙面全体の「高揚感」などということも考えている。まあ難しいが一ヶ月ごとの宿題ということでまだ答えやなしだ。
●原画14㎝×16㎝。全20点、現在も進行中。

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2008年9月11日 (木)

◎イリプス2nd 第1号 2008年4月刊行

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 新井豊美 岩成達也 北川透 倉橋健一 たかとう匡子 細見和之 氏らが参加の全国展開の詩誌。現在2号編集中10月に発刊。「ユルムチにて」「美しい動物園1」というぼくの絵本用原稿も入っている。装冊子一式も担当した。表紙墨一色。
 「短歌人」「地中海」「ハハキギ」「合歓」今度創刊される季刊「びーぐる」と結構忙しく表紙をやっている。マイナー誌表紙こそ自由に楽しみながらやる仕事。ずっと以前から小冊子経験から学んだことは多かったがなかには木口木版画自刷り200部なんていうのもあった。これは若さにまかせた力仕事だった。毎号刷り終えたあとインクだらけの手で麦酒を飲む喜びは何にも変え難いものだった。
●A5判152頁。カット、目次、フォーマット(らしきもの)も、だから装冊子一式。黒はマットインキの墨刷り。印刷後乾燥には手を焼いたそうである。ご免なさい。

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2008年9月 6日 (土)

◎浮海啓詩集『夜風の運ぶメモリー』2005年9月刊

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 「どこまでもふくれあがるもの ひろげればすべてが夢になるもの 皮膚に刻んだメモリー」(『夜風の運ぶメモリー』からの一節)
『試行』『あんかるわ』と終っていくなかで作者の小誌『詩編』に掲載されたもを収録、吉本隆明さんの帶文が付いている。「抽象のコトバと具象のコトバを織りあわせて豊かなイメージと意味からできた一枚の布」ということだ。詩作の丁寧さ、真摯さを意図されているのでは、と思うが..。
●四六判上製本。タイトルはつやけし金箔押し。

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2008年9月 4日 (木)

◎吉本隆明詩集『転位のための十篇』宮城賢訳 1995年11月刊

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Yosimoto

 「火の秋の物語 分裂病者 黙契 絶望から苛酷へ その秋のために ちひさな群への挨拶 廃人の歌 死者へ瀕死者から 一九五二年五月の悲歌 審判」の十篇。昭和28年9月に自家版として出版された吉本さん29歳のときの詩集、その英語版。訳者の宮城賢さんは『試行』の詩人で自営の翻訳家ということだがぼくはお会いしたことはない。おなじく浮海啓さんも二冊目の装幀だが一度もお会いしていない。だが『試行』とまったく縁がないわけではない。(月村敏行さん笠原芳光さんには会ったことがあるし、ぼくは笠原さんの神戸での「森集会」にも参加したことがある)
●A5判上製本。束は薄く、角背。はなぎれは赤、スピン(しおり)は黒。カバー図案は自家製マーブルを左右に分けて金インキで刷る。


ずっと以前、本駒込の吉本邸にインタビューの撮影でお邪魔したことがあり、たまたま装幀の話を聞くことになった。松岡祥男さんらがせっかくだからと勧めてくれたのだが突然なのでどうも...。そのあとの麦酒を飲みながらの話は本当に面白かった。本編も自然体だったがオフレコは食べていた串揚げがのどにつかえたほど面白くて「ため」になった。オフレコ部ではないが「装幀」談の再構成の抜粋(少し長いが)をどうぞ。


●吉本隆明インタヴュ−[89年而シテ]より抜粋


◎吉本 菊地信義さんがいるでしょう。
◎倉本 はい、仕事はよく知っています。
◎吉本 あの人の装幀の展覧会をやったときにその初日の日に装幀のおしゃべりをしたことがあるんです。喋ってくれって言われたことがあるんです。それでいくつか類型づけをしたことがあるんですけ どね。今出されている装幀というのがこうなってるみたいな。そう いうのをしたことがあるんですけどね。そういう類型づけはともかくね。菊地さんにもそういうところがあるけれども、装幀というのを表紙だけじゃなくて、中身の活字の組み方というものも含めて考えると優秀な装幀家ほどやっぱりやるわけですよ。やるわけですよっていうのは、つまり本の内容と競り合うんですよね。競り合って競り勝とうと、打ち勝とうとするんですよ。そうすると今度はこっちの方つまり書き手の方からするとね、これやりすぎよっていうふうに思うわけですよ。ぼくの本で言えばね、『記号の森の伝説歌』 という詩集があるでしょ。これはやりすぎよって。
◎倉本 杉浦康平さんのですね、本文も含めて。あれはそういう印象がありましたね。ムードはありますね。
◎吉本 これだけやられるとね、まあ、中身を読まないことはないんですけどね、中身を読もうという意欲をまず相当な程度減殺されるわけです。
              ※
◎吉本 凝るわけです。凝ることとね、それからあるときには割合に意図的にやるときもあるんですね。意識的に中身をつまり俺の装幀で食っちゃおうっていうふうに意識的にやるときもあるし、そうじゃなくて無意識のうちにそうなっちゃうっていうときもあるんですね。凝りすぎでなっちゃうということもあるんです。で、これやりすぎよってぼくだったらそう思いますね。これやりすぎだって思うのがもう一つあって、ぼくと坂本龍一との対談で『音楽機械論』という本があるんですね。あれはもうやりすぎ中のやりすぎでね。装幀の人が。あれだったら、ぼくだってそうだけどね、中身を読む気が全然なくなってしまいますね。ぺらっとこういうふうにめくっていったら、写真はあるし図はあるし非常に隅から隅までそういう意味ではちゃんと神経を行き届かして装幀してあるから、もうこうやってめくっていけばもうそれだけでいいっていうだけで、交わされている会話を読もうっていう気はもうとうないっていうふうにできてると思います。
◎倉本 それは、内容を持った文章であるのに、画像として見えちゃうという見せ方ですよね。ポスターのように文章を見せるというかそういうことに徹底してると思うんですね。どうしても装幀というのは内容と対峙して、勝負するような、また、同じ土俵で勝負するような気持ちというのはものすごく大事だと思うんです。そういった意味では、ビジュアルの側に、視覚的なものの方にこう取り込んでしまうというか、勝ち負けじゃないですけど領分をかなり侵略してしまうところがどうしても出てくると思うんですよね。
◎吉本 そうです。だからあれは、中身はけっこうおもしろいことをちゃんと言ってあるんだぜということがね、また坂本龍一ってまじめなんですから、つまり四回対談してね、ぼくは音痴だから何もわからないわけ。しかしあの人は四回でもってね、何とかこいつに音楽というのを何とかわかる、わからないまでも興味は持てるっていいましょうかね、関心は持てるとこまでは持っていこうというふうに思っているんですよ。意図してね、それで四回で少しずつ、音痴で何もわからないっていう奴に、これを聞いてきてくれませんかとかね、いちいち工夫しながら、四回やってるんですよ。それでぼくの方から言えば四回目終わった頃にはね、もしかすると音楽というものがわかるかもしれないぞというふうに錯覚といいますか、そういうふうに思わせるところまではやってるんですよ。だからあれはね、中身だけ見たら本当に音痴でわからん奴が読んで、それであそこに出てくるテープかレコードかなんかを聞いていくとね、だいたい終わったときは何となくわかる、わかりそうだぞとかね。
              ※
◎倉本 啓蒙的な側面があると思うんです。杉浦さんのデザインもね、 どうしても読者に対してビジュアルで啓蒙するぞみたいなそういう面が感じられるんですね。その坂本さんの場合もそういうエネルギーを感じますね。
◎吉本 それもあったかも知れないですね。
◎倉本 ちょっと違う話になりますが、音符っていうものもやはり映像化、図面化していますからね。音という非常に抽象的なものを記号化していますから、音楽とかデザインていうのは造形的な側面がかなり強いと思うんですよね。詩とか評論にしてもそうなんですけども、活字化されたものというのはどうしても、何ていいますか内向的なんですね。ですからたとえば二ページ見開きありましたらね、上下のそういうデザインでくり返すと、文字の形とか読ませ方とかいうのはかなりコントロールできる領域に入ってくると思うんです。吉本さんが最初におっしゃられた、やりすぎだというのはその造形のコントロールが読むのに目障りなんですからね。
◎吉本 そうですね。文字を書く側から欲を言えば、書かれた内容に対立といいますかね、そう仕掛けながらしかし同時に内容を助長しているといいましょうかね、助けているというようなそういう装幀のやり方をしてくれたらば非常に理想的なんですけどね。なかなかそうはいかなくて、才能があればあるほど中身と張り合おうという形になってくる。杉浦さんの装幀はいつでもそうだとぼくはそう思います。それからあの『音楽機械論』も、もう眼で見る装幀でみんな食っちゃえっていう感じになってるんですね。これだったら中身読む人はいないよって、ぼくだって読まないよっていう感じになるわけで。もっともあれは何もわからない素人とか音痴をね、いかによくしていくかっていうのをちゃんと坂本龍一はやっているんです。そうしておいて何となくこっちの方もうんという感じでね、もしかすると俺わかるのかもしれないぞなんていう(笑)。ほんとうは音痴なんですけども何となくそういう感じにはさせるというところまでいったんですね。
◎倉本 萩原朔太郎が自装本をよくしてるんです。で、彼自身こういうことを言ってるんですけどね。装幀は著者自装でいいんだと。要するに熟考された「内容の映像」こそが装幀であるというふうなね、装幀は内容の映像でなければならないから、内容に精通している、たとえば著作者である自分がやればいいんだって、自分の著作をネコのイラスト書いたりしてけっこうきれいにやってるんです。先程おっしゃったようなビジュアルの専門家が内容をそっくり取り込んでしまうというようなことは、朔太郎の時代にはなかったんじゃないかと思います。ただ『月に吠える』という詩集があって、これは恩地孝四郎と田中恭吉がそれぞれ装幀と装画を担当しまして、実にこれは見事にきれいに上がっているんです。そのきれいさというのが、「内容の映像」のそれ以上といいますか、装幀で内容を転じることを可能にしていっていると思うんです。版画を使って間接的に方法を展開していったりという技術的なこともありますが、と同時に、読者が手に取る次元を考えて変化させていく、そういうふうな二重の仕掛けになっているんですね。装幀の持っているしかけ、その辺のところが巧妙なんですが、それとは逆にたとえばかなり醜い なあ(笑)と思う装幀でも、内容の映像にたがわないいい装幀というのも一方であり得るんじゃないかと、まあ醜いまではいかなくても、なんかそういうことはあるんじゃないかと。そして、きれいな装幀でもだめなものもあるんじゃないかと思うのですが。
◎吉本 そうですね。ぼく菊地信義さんの装幀の展覧会のときにおしゃべり頼まれてね、手持ちの本の装幀を幾つか——今行われてる装幀家のやり方が、幾つかの類型に分けられたわけですよ。そしてその中の類型で極端なことをいいますとね、いい装幀、悪い装幀という考え方に、二通りの見方があって、いい装幀っていうのは何か。たとえば中身は何であれ、いわゆる泰西の名画、ルオーの道化師だとかいってそういうのを表紙に持ってくるわけですね。そしてこれはいい絵画なんだから、これはいい装幀だ、というふうに言うより仕方がないのだろうとい
うやり方をしているのがかなり多いです。まあ著者もその名画が好きであるし、また中身にも決して矛盾しないということもあるんでしょうけど、だれそれの名画を持ってくる、そういう装幀ってけっこうこぎれいにっていうか、きれいにしてあって、あっ名画だっていう感じでね、それじゃあその基準でいえば、名画じゃないやつをここへもってきたら、それは悪い装幀だってなるわけですね。極端に言うとそういういい悪いっていうのがあって、そしてもう一つ極端にいうのは、今あなたがおっしゃったようで、朔太郎は多少絵ごころがある人でしたらからね。著者は自分の中身をいちばんよく知っているんだと、極端にいうと。そうすると著者がそれにふさわしいと思ってやった装幀だから、それは御本人がいちばんいいと思ってるわけだから、これはいちばんいいじゃないかっていう観点があるわけですよね。朔太郎だって絵ごころあるしね、俺の詩はこうだと思ってやってるわけだから、これが悪いっていうのは俺の詩が悪い(笑)というのと同じじゃないかっていう観点が一つあるわけですね。そうすると、それの系列で言えば悪い装幀というのは、要するに中身には関係なく装幀家が中身なんか全然関係ないよと、ここに空間があっ
てこういう本があるんだから俺は思い通りにやってやろうというのが、要するに朔太郎的観点から言えばいちばん悪い装幀、とこうなるんじゃないでしょうか。 (抜粋)

 

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◎小池光歌集『静物』2000年12月刊行

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「八月十五日ならめ まないたに動かざる蛸の生足いっぽん」
「わが妻のからだ五倍なる小錦が土俵を去りしのちのしづかさ」
「おうい雲 磐城平はどうだった つまらなさうにもどりくる見ゆ」
 芸術選奨新人賞歌集ということになる小池さん5册目の歌集。近景、中景、遠景とうまくそろった風景画のごとし『静物』集といえる。この写真は刊行予定の『歌の装幀』の見開き頁から。
 ぼくはよく酔っぱらって小池さんの携帯に電話してしまう。いつかなにかの会の喫煙処で「いつもすみません、でなくていいですよ」と詫びたら「いいや、でるよでるよ」と煙りまじりに念を押された。なにか申し訳ない、ぼくの悪癖のひとつ。(止めよう、いや、たまにはいいか、いやダメダメ!自分なら絶対でないよね)というわけ。いずれにしろ酔った明くる朝の発信記録を見るのが怖い。
 小池さんは旧海軍の「摩耶」という巡洋艦が好きだとは島田修三さんから聞いた。お二人で延々と軍艦少年のように話がはづんだらしい。面白い。いつか軍艦談話をしてみたいものだ。巡洋艦だといってもいろいろな艦型があって「摩耶」は「鳥海」「愛宕」「高尾」と同型艦、13400tの排水量の重巡洋艦だ。34ノットというスピードを持つが欠点は艦橋が大きく敵弾のいい的になるということ。資料によると就航昭和7年6月〜昭和19年10月に沈没とあるからほぼ12年間闘ったことになる。最期はレイテ沖海戦。初戦の段階で愛宕、高尾とともに海の藻屑と消えた。ぼくは重巡「最上」が好きで中学生のころ全長60センチのソリッド模型に挑戦したことがある。木を削りヤスリをかけ接着剤を使って組み立てる。本格模型だから細かい部品などがあって子どもには大変な作業だ。案の定すこしいびつなまま中途挫折してしまった。実際の最上は海戦中何度も味方艦と衝突事故を起こしている。不運もあるが繰艦もまずかったのだろう。闘いのさなかだから致命傷になるわけでそのようなドラマも模型制作中断の挫折感とともに子ども心に残っている。
 小池さんが編集人の一人の『短歌人(月刊)』の表紙は何年も続けさせてもらっている。自由なのがなにより有り難い。3色なのがみそで4色ほどカラフルでなく2色ほどシンプルでもない、要素の「盛り込み」には難しいこともあるがいろいろ工夫して楽しめています。
●四六判上製本。カバージャケットと表紙は共通のデザイン。表紙絵はぼくのコラージュ作品。石灰色の用紙、緊(筋)度が高く箔押しには向かない(いわゆる箔が泣き易い)がここはあえて墨つや箔押し。用紙のせいか頑丈な本に出来上がった。

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2008年9月 2日 (火)

◎蒔田さくら子第九歌集『サイネリア考』2006年7月刊

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 「シネラリアその名を忌みてサイネリアと呼びかへにけり大和ごごろは」
 花名が変わる、なんてことに見事に関心がなかった。なんとなくことばのニュアンスの違いを綺麗だなあ、怖いなあ、変だなあ、と思うぐらいだった。響きのよさを選ぶ日本人の言語感覚は正当な能力。あのシクラメンも最初サイクラメンだったそうだ。「本来サイクラメンと言うんだ」ではなく「昔はそう、今はシクラメン」なのだ...これでいいのだシクラメン。「本当は装訂という」そうかい「ぼくは額装もするから装幀という」これでいいのだソウテイソウテイ。
「起き臥しのけぢめうすれて深更のテレビにわっと戦火上がりぬ」
「かの八月 テレビのあらば残りけむ証されにけむ閃光の惨」
 だらだらとテレビを観てしまっているときがある。だめ駄目と思っても消す意志は起らない。仕方ないなと思っていたらいきなりテレビが騒ぎだす、戦争のニュース速報。いったい何時だ、時計を見る。えっ、もう3時...というような8月の未明。仕事がら徹夜もあるが連続するとたいへんだ。仮眠も苦しい起き臥し逆転、たまにありますねこんなこと。でももはや体力が...。
 蒔田さんからお誘いがあって2003年2月にNHK歌壇(いまはNHK短歌)のゲストで出演したことがある。イラストレーターの木元研次さんがDVDを送ってくれた。それを見るとぼくが始終あがっていたことがわかる。木元さんは「かちかちなのが面白かった」と。肝心の投稿歌の評は「そのまんま」歌のなかみそのまんまだった。リハーサルもカメラの前に30分 座っているのも慣れないことだった。しかも全国放送。渋谷のNHKを出たときはもう「つかれたあ〜」と情けない話である。たかがTVじゃあないか、が新幹線に乗るころにはまさかオンエアーされるんじゃあないだろうな、というアホウな不安に変わっていた。いいことは二つ。装幀作品のビデオを撮ってもらえたこと(あとで放映を見たがよかった)、もう一つはスタジオの啓翁桜(けいおうざくら)をいく枝かもらえたこと。いけばな師範の母にいいみやげができた。案の定、綺麗な桜の束に大歓びだった(ぼくの数少ない親孝行の一つなるも)。ゲストの歌ということで下の歌をぼくが詠んだ。
「彩りの抽象束ねよカルトンに われは一人のカンデインスキー」
 だいぶ経ってから魚村晋太郎に結句がどうもと言われた。う〜ん、歌は難しい。「可笑しいな黄昏どきの小錦はゆうらりゆらり南無阿弥陀仏」「ゆうれひの考えている幽霊の日々は暮れゆき日々はまたぞろ」「問題外ですねえこれはどうも...」と言われそう、ふふ。
●A5判上製本。表紙布クロス。カバー図版は1滝の水しぶき、2旅客機、3パプリカ、4サイネリア、5砂地、
6水晶ネックレス、7赤富士のアッサンブラ−ジュ(アンサンブル)。カバージャケット用紙はシマメ白。カバーそでの石ころたちがほんとは一番凝ったところ。表そでと裏そでとは陰が少し違うのがみそ。簡単に」見せないのもみそ。タイトル・ネーム共に墨つや箔押し。とにかく帯はキラキラの黄緑。

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おしらせです

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2008年8月25日 (月)

◎山中智恵子全歌集(上下巻)2007年5〜8月刊

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 「一片の氷心天河に在りてありはてぬ恋に死になむ 虚夢のごとしも」 
 山中さんはぼくにはその高みにおいて「到底理解不能なる歌人」に違いない。昔に遡のぼって、この大歌人の仕事に対して装幀を十数冊もどのように続けてこれたのかまったく思い出せない。薄氷踏むがごとき冷や汗のでる話である。    
 山中さんのことでは編集人の田村雅之さんはたいした発行人だと思う。田村さん自身のことはまた別の機会にゆずるがこの山中さんの全歌集こそ出版人田村雅之のいや、砂子屋書房の歌書出版のひとつの集大成といえるものだろう。そして...装幀者は肝にめいじなければならない、このような歌人と編集者に出会えた幸運と歓びを。
 永田和宏さんの栞(下巻)の言葉を借りれば「とことん山中智恵子に付き合うという姿勢、最後まで付き合うという決意」「採算を度外視した事業」この反時流の言葉らは発行人冥利につきるこの上ない讃辞だ。砂子屋さんの内情をすこし知るぼくは企画本や全集が連続するとため息が出るほど経済がひっ迫することを知っている。だがそんなことをおくびにも出さないで酒を振舞ってくれるタムラ流がぼくは好きだ。
●上下巻ともに菊判函入り上製本。表紙、本背継ぎ装幀。山中さんは碧色が好きだった。黄土色は駄目。表紙の背部分は本クロスぞうげ色、ひら部分は濃紺の本クロス(理想の碧クロスはみな廃品となっていて、やむなくバクラムを使用)。背文字は墨つや箔押し。貼り函の図案は上巻「鳳凰・星・南天」文様。下巻「銅鏡面・鳥・散り花」文様。この写真ではすこし青いがほんとはもっと石灰色の細めエンボスの入った用紙だ。文様の箔は白金箔で特注のものである。ぼくとしても我が儘を通すしかなかった。上下巻合わせ1248頁の充実した全歌集。1頁10首組だから後ろの解説、解題、年譜を差し引いても、たいへんな歌の数だ。
 亡くなられて、東京での「偲ぶ会」でどういうわけかスピーチがまわってきた。ぼくの京都での個展に山中さんが来てくれたときの話...終始黙しておられたこと、うっすらと笑みをたやさずおられたこと、そして歌人の方はほかに誰も来なかったことなどを話した。(そりゃあ案内送ってないのだから仕方ないのだし)
 しかし「偲ぶ会」の帰りの新幹線では自分の山中装幀本を振り返って落ち込んでしまった。つくづく装幀は難しい、30年近くやってきてそう思うのである。本当の「装幀の怖さ」がわかる今日この頃です。
◎玲瓏の記(もゆらのき)2004年5月刊
 「千年の歌のちぎりの嬉(うるは)しくはた虚しきを誰か知る」
 後記に「たぶんこの集は私の最終歌集となると存じます」とある。どきとする17册目の山中歌集である。その最終頁の歌がこの歌。これは理解できる歌だがなにせ結句に「虚し」があるから厚かましくこちらも「虚し」くなってしまう。山中さんはもしかしたら「生まれ違い」なのか、数年前に三重の斎宮(さいくう)の地に何度も足を運んだが不思議な風水を感じたのはぼくだけか、資料館で山中さんの『斎宮史』を発見したが今思うとなんか虚しいです。
●この本は四六判函入り上製本。表紙は本背継ぎ装本。「星くずし」文様を拡大して函のひらにつやけし銀箔押し。用紙は徹底してキュリアスメタル紙を使った。紙と紙による背継ぎ。函のタイトルは濃紫の顔料箔押しだがこの写真では判別しにくい。この濃紫は山中さんも気に入ってくれたのではと思うがどうだろう。

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2008年8月23日 (土)

◎歌集『マドリガーレ』2006年5月刊行

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 「泥水よりあがりて浄きそのからだよせあひゆけり二頭の河馬は」
 河馬には自然の泥水がよく似合う。愛=泥水と考えるとこんなに仕合せな神々しい情景はない。河馬はぼくの思惑よりずっと美しい生きものだった。それにしても紺野裕子さんの「リアルな空想旅行」は尽きることがないようだ。何かの会のおり、挨拶を交わした。「やあどうもどうも」とそれは空想ではなく。
●A5判のサイズ、上製本で束(背巾)は充分。日常と非日常のはざまで揺れる「マドリガーレ」どんな衣裳がふさわしかったのか...。それにしても妙なことが起った。背文字のネームが抜けてしまっている。コピーもとには確かにあったから原稿は正しかったはずである。何故?いまだにわからないテイクONEであった。タイトルはつや消しの赤金箔。絵は自分で制作したマーブル見本からトリミングして使った。全面ベタなのだが、なにより色彩がきら紙に屹立している。ゆえに白ヌキの植物図案ラインも映えるというわけだ。

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2008年8月22日 (金)

◎詩集『かいつぶりの家』 2005年9月刊行

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「なんとよく調和した心地よい和声 いつの間にそんなに 唱えるようになったの」(『唱う家』の一節)
 著者は本来もっと激しい奇想の人なのだがこの一節は「振り返る」やさしさに満ちていると思う。
 川野圭子さんは広島に住んでいる。まえの詩集『テストの時間』の出版記念会の次の日、ぼくらを呉・倉橋島・江田島へと案内してくれた。ご主人の車に乗せてもらって山手に上がったり、船に乗ったりして呉を満喫した。呉といえば海軍兵学校。戦艦大和のドックや大きな戦没者記念碑もいくつも廻った。(その時点で大和ミュージアムはまだ無かったが...)ぼくは時間が止まったようにわが「海軍の戦争」を振り返った。
 江田島にはいま旧海軍時代から続く海上自衛隊の術科学校があるが海軍に関する遺構も多く、その構内には戦艦陸奥の主砲と大和の主砲弾、特攻兵器回天など勇壮でじつは悲惨な「兵器」が在った。終局追い詰められた日本の姿は多くの特攻兵器に象徴される。理不尽さゆえの虚しさや怒りをおぼえるがこれが戦争の無惨というものなのだろう。参考館内の展示は誰しもショックを受けるだろう何十という数の若い特攻隊員の遺言の手紙。「二十歳そこそこの若いものを軍隊の洗脳やすり込みによって云々...」などというが今の人だって商業主義や消費社会によってすり込まれ情けない低レベルに均一化されているじゃないか。どれほどの人がいま自分自身を「確実」に自覚しているのか、怪しいものだ。
 若くして自分が死を受けとめることは誰しも辛いに決まっている。狂ってたのは彼らではない。だから尚更あの遺言たちの潔ぎよさが痛々しい。
 夕方、広島に戻ってお好み焼きを食べ歓談して川野さんたちと別れた。同行の倉橋健一さんと「とてもやないけど大阪の連中には内緒やな」と訳のわからないような変な了解をしあって帰阪するのだった。いつも愉快な論客の倉橋さんもめずらしく静かだった。シーンと新幹線も同じように黙って奔るのだった。

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●この詩集はA5判上製本、カバージャケットは墨色と、こき緋色の2色。152頁だから詩集としては充分の束(背巾)がでた。エッチングの墨を全面に押し出した装幀でエッチャ−(私)の自信満々の様子がみえる。この画は『ブリムオーバーアゲイン』という未刊行版画集のなかの一点。シリーズの数点を絵はがきならぬ絵封筒にした。これはイラストレータ−の西口司郎さんが勧めてくれた紙屋さんとのコラボだ。いろいろな紙を使っていろいろ印刷してもらった。なかなか評判のいい封筒で美しい「きらびき」のものはもう無くなってしまった。もし欲しいひとがあればおすそわけしてもいいです。ちなみに『ブリムオーバーアゲイン』は現在もまだ制作中です。

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2008年8月18日 (月)

◎麦酒伝来(びーるでんらい)2006年7月刊行

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 森鴎外や夏目漱石。乃木希典や大山巌。明治の欧州留学派たちの多くはラガービールをこよなく愛したという話。ビールと日本の近代史も理解できる『ビール小事典』付きの超お得な本です。
 鴎外と乃木はやたら気が合ったというが二人ともプロシア・ドイツの陸軍の伝統「一気飲み」をも伝授されていたとは驚きである。鴎外の「独逸日記」にとんでもない量をのむかれら将校の話がでてきます。「諸生輩麦酒を喫す。その量驚くべし...」それによるとドイツの500ミリリットルのジョッキ25杯飲むものはザラだそうで鴎外が1リットル飲むあいだに相手は12リットルも飲むというのだ。恐るべしプロシア・ドイツ。ちなみにぼくは20代で大ジョッキ15杯、40代で12杯、50代で5杯とまあ普通です。
 英国のエールビール、ドイツのラガービール、これがビールの二大種類。わが国は幕末から明治初期まではエール中心、明治10年代からラガーへと変わったがすなわちそれはフランスからドイツへ日本国軍隊の範も変わったということだ。その時代多くの留学生は帰国しドイツ式を日本に広めたのであろう。(書籍意匠もまたしかりだが...これはまた別の機会に)

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●四六判ソフトカバー。314頁。カバー写真は著者所有のジョッキたち。一つずつ顔が違うのがいい。この写真もとはラフなスナップだった。修正してなんとかグレードを上げたが背景の黒は苦心の作。完全に創作したところもあるが原版と比べると、内心ふふっと笑う程の見事なわがテクニックである。注目すべきは下の写真、世界で最も大きなミュンヘンのビール祭り。鴎外も「独逸日記」に書いている十月の雑踏。とんでもない人々の波だそうだ。「オクトバーフェスト」というお祭りだが会期中なんと550万リットル!のビールが消費されるという。話がそれたがこの写真は「オクトバーフェスト」の会場の天井の飾り。
 宝塚ホテルのがらんとしたビアホールでラフを編集者の谷川さんにみせた。好感触だった。楽しく仕事をさせてもらった。こういう時は大抵うまくいくものだ。先月取材をうけた毎日新聞の『創造の風景』(8/15夕刊掲載)の記事に「結局、うまい酒を飲みたくてやっているのかな」とぼくのセリフでむすんであった。たしかに自分で言ったことだが苦労のあとのうまい酒はホントにたまらないものだ。
 それはともかくこう暑いとさらにビール旨し。著者と編集者(村上満さんと谷川豊さん)とぼくと三人でドイツビールを飲もうといった話は何処にいってしまったのでしょう?谷川さんなんとかして下さい。

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2008年8月12日 (火)

◎魚村晋太郎第二歌集『花柄』

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 「もうあれは終ったんだと夢のような花柄のシャツ着て俺が言ふ」
 今年の正月に阪急京都線高槻駅近くのビアホ−ルで昼のうちから二人で呑んだ。正月休みの店も多いがここだけは開店していた。魚村晋太郎は京都から来てくれたが、暮れからの飲み過ぎでビールジョッキが重い。
 注文がワインに変わる頃に『花柄』の装幀は良いよという話になった。なにせ昨秋、出張先の有馬のホテルにまで下絵を見に来てくれたのだからぼくも緊張してしまった。今度の装幀はご本人も気にいっているとのことだがカバージャケットなしの変則装幀。もちろんカバーなしは何冊も経験している。先の『銀耳』(ぎんじ)はいま一つ気にいってないというのも知っていた。かれは「ちょっとだけ入魂」と笑いつつもぼくを責めるのだったが、ぼくももっと派手綺麗にやってもいいかもと思っていた。やるべき深まりが掴めなかったせいもあるが、何か「エロチックなヤクザ」のような男(俺)が静かに立っているような感じがするそんな独身者の(いや孤独な)歌人だとも思った。がしかしである。ご本人も外見はそう見えるのだからしかたない。いつか京都駅下の飲み屋で島田修三さんと三人で焼酎を飲みながら、魚村くんはどーみてもその筋の貫禄だねえ、と酒の肴にしたことがある。あの島田さんもたっぱもあり貫禄(大学教授とは違った意味で)もある。その人にこう言わせるほど「危険」な感じがするのだからしかたない。店員も失礼のない様に必ず魚ちゃんを意識してオーダを聞こうとする。ぼくとは可笑しいほどの貫禄の違いだ。(ぼくがトンボでかれは大きな蝦蟇?失礼!)だがかれはホントは腰の低いよく気のつく繊細な人だ。その筋の店でもバイトしたことがあるというがそこでの話はいろいろ面白かった。かれは苦労人だなあと時々思うことがあるが何故そう思うかは分からない。かれの直感に対してのぼくの直感。...だからまったく確証があるというわけではない。ちなみにかれは故塚本邦雄さんの上出来のお弟子さんである。
 「労働といふのはなべて(ある意味で)求愛行為、思ふ。夜更けに」
 「四ッ谷って丘の上だね一日中寝ていたひとと駅で落ち合ふ」...(い)が違ってますが...
 「夏風邪の喉をすすぎて褐色のひかりの束をひとは吐き出す」
 ぼくはこの歌集の評というものを読んだことがない。まああまりぼくには関係ないと思うからだが。ぼくが美学生のころの合評会にこんなのがあった。教授:「君、もうすこしこの部分に赤を」というようなことは、まるで聞けない話だった...ほんとに言うほうも聞くほうも両者とも孤独なものです。
 ところで有馬の夜はその他にも盛り沢山だった。飲み手先攻タムラマサユキ、後攻クラモトシュウ、審判ウオムラシンタロウ..というわけで三人はいつまでも飲み続けるのだった...。

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●この本は四六判変型。本クロスとキュリアス紙との本背継ぎ装。タイプの箔押しはなんと特注の「白金箔」二本の曲線は空押し。光りものにもぴんからきりまであるがキュリアス紙はぴん。扉はちょっとエロチックなライン。

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2008年8月 9日 (土)

◎懐かしのサルトル『嘔吐』

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 50年も以前に刊行された人文書院のサルトル全集、その新装版シリーズの装幀。35年も前、頭を奮い起こしながら読んでいたがその装幀に自分が関わることになるとは...。当時ぼくはカラーマーブル紙の制作に熱中していたこともあり、このシリーズはマーブルでいこうと決めた。欧州のマエストロがつくる見事にくり返されるマーブルと違い、素描絵画としてのマーブル。それを試してみたかった。使用する色数は内容からみてそれほど必要とはしないが、用紙の選定には熟考が不可欠だった。めざすはサルトル前作のイメージ払拭だったが装本の一部は昔のものを残したかった。もとの準フランス装はたいへん「感じ」が良かったからだが、現在の製本・出版環境でそれは残念ながらムリ。つねに野心的な仕事は矛盾を孕んでいるものだがこのときほどそれを感じたことはない。いいものでもどんどん変えてゆくご時勢なのだろう。
 STカバー用紙でジャケットをいく、というのはちょっとリスキーなこと。編集部の小林ひろ子さんはどう思ったろうか。STカバーという紙は横ラインのすき文様があってこれがぼくにとって前作の「雰囲気」を感じさせるものだったが小林さんはどうだったろう。だいたいぼくのコスト計算は高めだから、はたして定価にみ合ったものになったのだろうか。続けて『文学とは何か』『真理と実存』『実存主義とは何か』『哲学・言語論集』『植民地の問題』『存在と無・上下』『自我の超越 情動論粗描』『言葉』などが上梓された。

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 あるとき小林さんが『嘔吐』の読者カードのコピーを送ってくれた。そこには「装いが見事である。字体、色の配色等が美しかったので購入した。内容についてはもはや語るべきことはないであろう(原文ママ)」とあった。消印から察するに横浜伊勢崎の人らしい。これこそ装幀冥利に尽きるというものだ。

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2008年8月 8日 (金)

◎石田比呂志歌集『流塵集』

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 子どもの頃、清く正しく美しくなんて言われて、そんなものかなと思っていた。長じてそんなことはあり得ないと思うようになるのが普通。この世はひどく汚らしい奴らも多いから、こっちも染まっていくのも普通。なかには恩知らずや恥知らずも、エゴイストもいるだろう。ホントはご免こうむりたいのだが...やんぬるかな、と思うのも普通なのだろう、しかし....
 ちょっと昔に肥後熊本の歌人、石田比呂志さんから「伊佐美」という芋焼酎を送ってもらったことがある。「ちびちび呑るといい」ということだった。そもそも京都での呑み会での約束だった。酔会での約束はたいてい破られるものである。アルコホルと同じく悪げなく霧散していくもの、だが石田さんは送ってくれた。麗しき伊佐美に口をつけながら、石田比呂志歌集を読む。十冊目になる『忘八(ぼうはち)』だ。タイトルについて依頼のおりに「きみそのものだなあ」と編集者は笑い、いやあ「あなたそのものだろう」とぼくも笑った。それにしても渋い...。
 なんて渋い装幀だろう。自分でいうのも何だが、ちょっと渋すぎるかも知れない。
 「いろいろ反省しています、勘弁してください」畢竟、石田さんにとって忘八の意味はそんなところであろうと思われる。だが石田さんは仁義をまもる。ひょっとして礼も信も、ことによると、智や悌も備わっているかもしれないなと思う。う〜んわからないがとにかく伊佐美は旨かった、これだけはたしかだ。石田さんありがとう。これで最後だなどと言わないで、どうかご自愛ください。そしてまた女人の話でもしながら愉しく呑みましょう。

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●石田さんの本の装幀は写真のようにたくさんやらせてもらった。(これでも一部)A判のものもあれば四六判もある。『忘八』はグラシン巻き。各々ぼくの版画や水彩を使ったり、文字だけでやったりしたものだ。現在『流塵集』というのを装幀アップしたところである。極力単純にミニマムなイメージでつくりたいと思う。石田さんの場合いつもそうだが、装幀に取りかかる気分は浮き浮き気分だ。なぜか楽しい、大歌人なのになぜかしらん..。石田さんの本は書架でなく、こんなふうに取り出して仕事場に積み上げて見るほうが似合っていると思う。

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2008年8月 7日 (木)

◎馬場あき子歌集『飛天』

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四六判上製本の歌集。「月光はレモンの香となりてわれのみが冬の仕事はたさず」まったくぼくもその通り家人に迷惑をかけつつ生きています。これでいいのでしょうか。ん、誤読?そうかも知れませんね。
 この表紙も本クロスの背継ぎ。ひら面のシェレナという紙は岩肌っぽいマチエールをもつぼくの好きな紙のひとつ。いつもそうだがプレッシャーに苦しんだあげくにこの紙を選んだ。光っているのが嫌いだという著者もいるからだ。ただやたら光りものを使っているわけもなく、よくよく考えてのことだから勘弁して下さい。記念会などで馬場さんを見かけるとちょっとびびってしまう。でも話っぷりがたいへん好きで以前、塚本邦雄さんのお葬式で弔辞を聞いた時その口跡はみごとにカッコよかった。(不謹慎ですみません)うちの母もいい口調をもっているが性分が似ている?のかも知れない。
 『阿古父』という読売文学賞の歌集(第十三歌集)がぼくは好き。グラシン紙天地巻きというやつで薄紙の中から赤金箔のタイトルがにぶく光っている。バック色フレームの薄はなだの上にちようじ紋様の図案。なぜちょうじなのか。最初そのかたちを見たとき「阿古父面」に似合っていると直感した。能面にこれほどの軽快さは発見できなくともテクストから「すこし離れること」ができるのだと思う、そういう直感だ。面そのもの
よりそのほうが圧倒的に爺の香りがするというものだ。「付き添わない意匠」はぼくのその頃のモットーだったからこれでいいと思った。

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◎『定本多田智満子詩集』

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 菊判上製函入。旧い話だが多田さん愛用のブルースーツの色を函仕立てにした装幀。神戸のライブハウスの朗読会でお会いしたとき何と似合っていることかと感嘆してしまった。煩い会場だったがその一点だけが清新かつ美的だった。写真は発行予定の装幀作品集の中の見開きのページ。表紙は本クロスと細布の本背継ぎ。函の紋様は19世紀英国文様をコンポーズブルーのオペークインクでのせた。多田さんはそんなに親しいつき合いがあったというわけではないがその青はぼくのなかでは[タダブルー]として定着している色だ。「青の中の青」とはアメデオ・モジリアニの少女の絵を思いだすが....
 ごく最近、詩人のたかとう匡子さんが仙台の演劇研究「ACT」にこの本と「装幀家倉本修」について書いてくださった。自分でいうのもなんだけど、そして面映いのだけれどうまくまとまった論だと思った。

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2008年8月 5日 (火)

『太田省吾 劇テキスト集(全)』

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太田省吾さんが亡くなって一年が過ぎた。先週の一周忌に東京の俳優さんたちと電話で話を交わしたが太田邸は賑わっている様子だった。もはや皆が再会した「偲ぶ会」から一年近く経っているのだ。こちらは大阪の岩脇正人邸でじっくり呑んでしまった。
 省吾さんを最後に見舞ったのは白金台の病院だった。その病院の窓から遠くに六本木ヒルズが見え下には女学校の緑があった。省吾さんはベットを傾けて窓の外を眺めていた。綺麗な病室だった。何週か前後して安藤朋子、枝元なほみ、品川徹、大杉漣、佐々木幹郎、辻上彰二さんらが順次お見舞いに訪れていた。製作中の太田省吾テキスト集のカバージャケットのプリントはもう病床に届けてはいたが本文が未だ完成には到ってなかったから焦りもあった。病床の人にあとがきの催促はちょっと辛いものがあった。発行者の高野達也氏と「どうしょうか」と悩みつつも「短くてもいいですから....」とお願いした。省吾さんは「大丈夫」と笑ったがやはり無理だったろう。結局、遺文として病床のメモを掲載することになってしまった。本の完成をみることなく省吾さんは逝ってしまった。「残念」という言葉はこういうことをいうのだろう。十数年を振り返りもっといろいろ話しておけばよかったという悔いが残る。
 2006年秋、西荻窪のレストラン「こけし屋」で太田さんとこの本の最初の打ち合わせをした。ぼくはずっと以前この近くの松庵というところに住んでいたがその頃とは駅や近辺の様子は様変わりしていた。だが「こけし屋」はまだ在った。なにか嬉しかった。禁煙席と知らずに太田さんは煙草に火をつけた。ウェイトレスに促されて止めたがほんとはぼくがそうするところだった、煙草の銘柄は....しかしなぜこんな細かいことまで憶いだすのだろう。初恋を憶いだすようなものだ。まったくう、苦笑してしまう。太田さんはヘビースモーカーだった。そのときを振り返るとすこし咳もでていたと思う。ぼくは持っていた葉巻きを出しそびれた。
 ●この『劇テキスト集(全)』は初期の「乗合い自動車の上の九つの情景」から「↑ヤジルシ」までの26点のテキストを集録、B判の変型本。装幀の発想は、ぼくが何度も観た太田省吾の舞台。ファーストライトとエンデイングライトのイメージをまとめた。黒→白→黒がねらい。656ページ、エンビケース入。写真のようにぶ厚くて四角い顔をもつ大作。26点の扉写真の小ささに太田さんは最初驚いたらしいがしばらくすると小さいのが気に入っているとファクスがあった。じつは扉には工夫(しかけ)があったのだが...。見返し用紙はマットな黒、これに銀ペンで太田さんのサインが欲しかった。本文組みは最初、じつに不安定だったが大阪の組版の名人、大石十三夫さんに一緒に上京してもらって指導してもらった。健康ジャーナル社の勝部愛さんも頑張った。本のかたちが出来上がってしまうといつも不完全だなあと思うのだが扉写真ページはラフの方が断然良かった。それは間違いない。
 品川徹さんの大阪での公演があり梅田でお会いしたとき、近くの古本屋街で『劇テキスト集』を発見したということだった。価格は6千円ぐらいだったという。はやくも古本かと驚いた。

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◎装本[SOHON]の仕事

Honndana_2倉本修書架1・2008/8/4
Hondana_2倉本修書架2・2008/8/4


長いあいだほったらかしの自分の書架をあらためて眺めている。自分の装幀の仕事を振り返り少しだけ考えてみる。3000册の装幀はしかと3000の「生」を支えたのだろうか、はたして....。
 昨晩、猫の尻尾をおもいきり踏んずけてしまった。ぎゃあと猫は夜空に飛んだ。地面に着地したそのかたちは一冊の本だった。
 『我が輩は猫デアル』の猫が溺れ死ぬ最期のシーンを想う。なるほどわたしに似ているかも知れないし...このように死するのかも知れない。まあそれまでは自由気儘にいきます。
 本来のブログは興味薄だ。アクセス数など気にせず表現としてのそれを楽しみたい。

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