

「火の秋の物語 分裂病者 黙契 絶望から苛酷へ その秋のために ちひさな群への挨拶 廃人の歌 死者へ瀕死者から 一九五二年五月の悲歌 審判」の十篇。昭和28年9月に自家版として出版された吉本さん29歳のときの詩集、その英語版。訳者の宮城賢さんは『試行』の詩人で自営の翻訳家ということだがぼくはお会いしたことはない。おなじく浮海啓さんも二冊目の装幀だが一度もお会いしていない。だが『試行』とまったく縁がないわけではない。(月村敏行さん笠原芳光さんには会ったことがあるし、ぼくは笠原さんの神戸での「森集会」にも参加したことがある)
●A5判上製本。束は薄く、角背。はなぎれは赤、スピン(しおり)は黒。カバー図案は自家製マーブルを左右に分けて金インキで刷る。
ずっと以前、本駒込の吉本邸にインタビューの撮影でお邪魔したことがあり、たまたま装幀の話を聞くことになった。松岡祥男さんらがせっかくだからと勧めてくれたのだが突然なのでどうも...。そのあとの麦酒を飲みながらの話は本当に面白かった。本編も自然体だったがオフレコは食べていた串揚げがのどにつかえたほど面白くて「ため」になった。オフレコ部ではないが「装幀」談の再構成の抜粋(少し長いが)をどうぞ。
●吉本隆明インタヴュ−[89年而シテ]より抜粋
◎吉本 菊地信義さんがいるでしょう。
◎倉本 はい、仕事はよく知っています。
◎吉本 あの人の装幀の展覧会をやったときにその初日の日に装幀のおしゃべりをしたことがあるんです。喋ってくれって言われたことがあるんです。それでいくつか類型づけをしたことがあるんですけ どね。今出されている装幀というのがこうなってるみたいな。そう いうのをしたことがあるんですけどね。そういう類型づけはともかくね。菊地さんにもそういうところがあるけれども、装幀というのを表紙だけじゃなくて、中身の活字の組み方というものも含めて考えると優秀な装幀家ほどやっぱりやるわけですよ。やるわけですよっていうのは、つまり本の内容と競り合うんですよね。競り合って競り勝とうと、打ち勝とうとするんですよ。そうすると今度はこっちの方つまり書き手の方からするとね、これやりすぎよっていうふうに思うわけですよ。ぼくの本で言えばね、『記号の森の伝説歌』 という詩集があるでしょ。これはやりすぎよって。
◎倉本 杉浦康平さんのですね、本文も含めて。あれはそういう印象がありましたね。ムードはありますね。
◎吉本 これだけやられるとね、まあ、中身を読まないことはないんですけどね、中身を読もうという意欲をまず相当な程度減殺されるわけです。
※
◎吉本 凝るわけです。凝ることとね、それからあるときには割合に意図的にやるときもあるんですね。意識的に中身をつまり俺の装幀で食っちゃおうっていうふうに意識的にやるときもあるし、そうじゃなくて無意識のうちにそうなっちゃうっていうときもあるんですね。凝りすぎでなっちゃうということもあるんです。で、これやりすぎよってぼくだったらそう思いますね。これやりすぎだって思うのがもう一つあって、ぼくと坂本龍一との対談で『音楽機械論』という本があるんですね。あれはもうやりすぎ中のやりすぎでね。装幀の人が。あれだったら、ぼくだってそうだけどね、中身を読む気が全然なくなってしまいますね。ぺらっとこういうふうにめくっていったら、写真はあるし図はあるし非常に隅から隅までそういう意味ではちゃんと神経を行き届かして装幀してあるから、もうこうやってめくっていけばもうそれだけでいいっていうだけで、交わされている会話を読もうっていう気はもうとうないっていうふうにできてると思います。
◎倉本 それは、内容を持った文章であるのに、画像として見えちゃうという見せ方ですよね。ポスターのように文章を見せるというかそういうことに徹底してると思うんですね。どうしても装幀というのは内容と対峙して、勝負するような、また、同じ土俵で勝負するような気持ちというのはものすごく大事だと思うんです。そういった意味では、ビジュアルの側に、視覚的なものの方にこう取り込んでしまうというか、勝ち負けじゃないですけど領分をかなり侵略してしまうところがどうしても出てくると思うんですよね。
◎吉本 そうです。だからあれは、中身はけっこうおもしろいことをちゃんと言ってあるんだぜということがね、また坂本龍一ってまじめなんですから、つまり四回対談してね、ぼくは音痴だから何もわからないわけ。しかしあの人は四回でもってね、何とかこいつに音楽というのを何とかわかる、わからないまでも興味は持てるっていいましょうかね、関心は持てるとこまでは持っていこうというふうに思っているんですよ。意図してね、それで四回で少しずつ、音痴で何もわからないっていう奴に、これを聞いてきてくれませんかとかね、いちいち工夫しながら、四回やってるんですよ。それでぼくの方から言えば四回目終わった頃にはね、もしかすると音楽というものがわかるかもしれないぞというふうに錯覚といいますか、そういうふうに思わせるところまではやってるんですよ。だからあれはね、中身だけ見たら本当に音痴でわからん奴が読んで、それであそこに出てくるテープかレコードかなんかを聞いていくとね、だいたい終わったときは何となくわかる、わかりそうだぞとかね。
※
◎倉本 啓蒙的な側面があると思うんです。杉浦さんのデザインもね、 どうしても読者に対してビジュアルで啓蒙するぞみたいなそういう面が感じられるんですね。その坂本さんの場合もそういうエネルギーを感じますね。
◎吉本 それもあったかも知れないですね。
◎倉本 ちょっと違う話になりますが、音符っていうものもやはり映像化、図面化していますからね。音という非常に抽象的なものを記号化していますから、音楽とかデザインていうのは造形的な側面がかなり強いと思うんですよね。詩とか評論にしてもそうなんですけども、活字化されたものというのはどうしても、何ていいますか内向的なんですね。ですからたとえば二ページ見開きありましたらね、上下のそういうデザインでくり返すと、文字の形とか読ませ方とかいうのはかなりコントロールできる領域に入ってくると思うんです。吉本さんが最初におっしゃられた、やりすぎだというのはその造形のコントロールが読むのに目障りなんですからね。
◎吉本 そうですね。文字を書く側から欲を言えば、書かれた内容に対立といいますかね、そう仕掛けながらしかし同時に内容を助長しているといいましょうかね、助けているというようなそういう装幀のやり方をしてくれたらば非常に理想的なんですけどね。なかなかそうはいかなくて、才能があればあるほど中身と張り合おうという形になってくる。杉浦さんの装幀はいつでもそうだとぼくはそう思います。それからあの『音楽機械論』も、もう眼で見る装幀でみんな食っちゃえっていう感じになってるんですね。これだったら中身読む人はいないよって、ぼくだって読まないよっていう感じになるわけで。もっともあれは何もわからない素人とか音痴をね、いかによくしていくかっていうのをちゃんと坂本龍一はやっているんです。そうしておいて何となくこっちの方もうんという感じでね、もしかすると俺わかるのかもしれないぞなんていう(笑)。ほんとうは音痴なんですけども何となくそういう感じにはさせるというところまでいったんですね。
◎倉本 萩原朔太郎が自装本をよくしてるんです。で、彼自身こういうことを言ってるんですけどね。装幀は著者自装でいいんだと。要するに熟考された「内容の映像」こそが装幀であるというふうなね、装幀は内容の映像でなければならないから、内容に精通している、たとえば著作者である自分がやればいいんだって、自分の著作をネコのイラスト書いたりしてけっこうきれいにやってるんです。先程おっしゃったようなビジュアルの専門家が内容をそっくり取り込んでしまうというようなことは、朔太郎の時代にはなかったんじゃないかと思います。ただ『月に吠える』という詩集があって、これは恩地孝四郎と田中恭吉がそれぞれ装幀と装画を担当しまして、実にこれは見事にきれいに上がっているんです。そのきれいさというのが、「内容の映像」のそれ以上といいますか、装幀で内容を転じることを可能にしていっていると思うんです。版画を使って間接的に方法を展開していったりという技術的なこともありますが、と同時に、読者が手に取る次元を考えて変化させていく、そういうふうな二重の仕掛けになっているんですね。装幀の持っているしかけ、その辺のところが巧妙なんですが、それとは逆にたとえばかなり醜い なあ(笑)と思う装幀でも、内容の映像にたがわないいい装幀というのも一方であり得るんじゃないかと、まあ醜いまではいかなくても、なんかそういうことはあるんじゃないかと。そして、きれいな装幀でもだめなものもあるんじゃないかと思うのですが。
◎吉本 そうですね。ぼく菊地信義さんの装幀の展覧会のときにおしゃべり頼まれてね、手持ちの本の装幀を幾つか——今行われてる装幀家のやり方が、幾つかの類型に分けられたわけですよ。そしてその中の類型で極端なことをいいますとね、いい装幀、悪い装幀という考え方に、二通りの見方があって、いい装幀っていうのは何か。たとえば中身は何であれ、いわゆる泰西の名画、ルオーの道化師だとかいってそういうのを表紙に持ってくるわけですね。そしてこれはいい絵画なんだから、これはいい装幀だ、というふうに言うより仕方がないのだろうとい
うやり方をしているのがかなり多いです。まあ著者もその名画が好きであるし、また中身にも決して矛盾しないということもあるんでしょうけど、だれそれの名画を持ってくる、そういう装幀ってけっこうこぎれいにっていうか、きれいにしてあって、あっ名画だっていう感じでね、それじゃあその基準でいえば、名画じゃないやつをここへもってきたら、それは悪い装幀だってなるわけですね。極端に言うとそういういい悪いっていうのがあって、そしてもう一つ極端にいうのは、今あなたがおっしゃったようで、朔太郎は多少絵ごころがある人でしたらからね。著者は自分の中身をいちばんよく知っているんだと、極端にいうと。そうすると著者がそれにふさわしいと思ってやった装幀だから、それは御本人がいちばんいいと思ってるわけだから、これはいちばんいいじゃないかっていう観点があるわけですよね。朔太郎だって絵ごころあるしね、俺の詩はこうだと思ってやってるわけだから、これが悪いっていうのは俺の詩が悪い(笑)というのと同じじゃないかっていう観点が一つあるわけですね。そうすると、それの系列で言えば悪い装幀というのは、要するに中身には関係なく装幀家が中身なんか全然関係ないよと、ここに空間があっ
てこういう本があるんだから俺は思い通りにやってやろうというのが、要するに朔太郎的観点から言えばいちばん悪い装幀、とこうなるんじゃないでしょうか。 (抜粋)
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