2009年9月28日 (月)

◎岡井隆『けさのことばⅠ・Ⅱ』 2007年12月・2009年・3月刊。

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この数冊は中日新聞の朝刊コラム『けさのことば』2001〜06年連載分をまとめたもの。あとがきに「朝のコラムでありますから、できるだけ明るく前向きの内容をこころがけて...」とある。
 大岡信さんの『折々のうた』や坪内捻典さんの『季節のたより』などと同様に新聞の片隅に120字程度の短い文章で解説感想を加えているもので、たいていの新聞にはこういうコラムがある。内容は短歌、俳句、詩、古今東西の人生訓、箴言など各種である。毎日のことだから数年分だと大変な量になる。これらの本はだから分厚い。巻末の索引を入れるとおよそ600頁。むろんこれでも抜粋なので、1984年から25年間となれば相当な量だ。
「どの路地も海に通じて十二月」
という坪内捻典さんの俳句が載っている。「海は明るくて展望の開ける場所なのだ」と岡井さん。ごく最近、坪内さんと飲む機会があり、「どうですか」「何も変わりませんよ」という会話。いつもそうだが、句風と違って何気ないのがこの俳人(ひと)の特徴だ。マッコリ酒をおすそ分けすると「強いのはあまり飲めないので」と言ってひと口、そのあと麦酒をちびっと。白髪の下の顔はすでに赤い。こんなのもある、
「責めらるればひきしまり、惠まるれば弛む」。
前後があるが、ぼくが崇拝するウィリアム・ブレイクの[地獄の格言]にある言葉だ。岡井さんは「苦悩の人生を生きたブレイクは恵みによってゆったりとする憩いの時を望んでいたのではないか...」と。
 画家ブラックや西行やゲーテやヴィトゲンシュタインのことばもある。文型として小さく読みやすくなっているがぼくはやはり「ニュアンス」の残し方に岡井さんの妙を感じている。答えを用意せず、断じがなく、やさしいのである。朝刊のコラムというのはかくありなん。

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●A5判変型本。ホントはこの判型で他に3種ある。また86年発刊の二巻は四六判変型、三冊めは四六上製とご覧のように全巻まちまちのサイズ。最近の二册は日本伝統文様からそれぞれ「紫陽花」「黒水仙」の図案を使用。二冊ともカバー用紙はクロコGA。見返しや表紙はオリヒメとかシマメとか、ざらついた質感の紙を選んだ。こういう本には当然ながら質感。右は皇室向け特装本。スカーフマチエール紙と本クロスとの背継ぎ装。もちろん普及装もある。

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2009年7月19日 (日)

◎『書物の時間-ヘーゲル・フッサール・ハイデガー』芦田宏直著 1989年 12月刊。

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あるとき調べものをしようと本棚のまえに坐る。すると二層になっている書架の奥から何冊か哲学論文集が現われた。懐かしい顔をもつ数冊だ。たとえば現象学はメルロ・ポンティの「知覚の現象学」を学生時代に読んだきり。身体性の現象云々だったか、今ではほとんど憶えてはいない。確実なことは20歳でしか読めなかっただろうこと、その折の理解はたいへん不十分だったろうということだ。ほとんどの現象学は各々の境界を持ち、重なりあい、また突き放しあっているらしい。ぼくらの「表現」というものの本質もそのようなものだと思う。ぼくは危うくも哲学的に「哲学」の周りを歩いたり、止まったりしているだけなのだろう。いま読むと、この本はポストモダンとのコレ−ションも含まれていて内容もその時点で意欲的。
 最近になって装幀として、これら哲学書の捉え方は「読んでちゃ」とても成り立たないと思うようになった。その点で編集者がいることの意味は大きく、かれへの取材無くばおおよそ装幀など完成しないだろう。
 著者の芦田さんは早稲田大の大学院出、新鋭36歳の本だった。しかしいつものことだが、思い出すのは酒を飲んだことばかり。たしか京都八瀬の温泉から、芦田さんの親戚だったかの貴船の料理屋にまで招かれて、次から次ぎへとまあよく食べよく飲んだものだった。

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●四六判上製カバー装。368頁。カバーはアート紙だが色数は4色、マット加工をしている。表紙はボス、見返し用紙NTラシャ。この頃ぼくの用紙の選び方は特に高価でもなく所謂「普通」だった。但し帯についてはパールインキべた文字白抜きでちょっと贅沢?かも。いま読むと、序と本文についての「ヘーゲルと書物の時間」などは比較的解り易く、門外漢でも成る程と面白い。帯のヘッドコピーは「存在と時間の形而上学をめぐって」とある。いまは亡き澤田都仁氏が考えたのだった。

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2009年7月17日 (金)

◎『雪後集(せつごしゅう)』鈴江幸太郎歌集 1981年7月刊。

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 暫く忙しく働いたせいか、ブログがすっかり留守になっている。なかなか気楽なもんだ。
 この本がはじめての歌集装幀になる、ぼくの記念すべき地味な!一冊。版元は京都の初音書房。編集は土岡忍さん。当時のぼくは歌界に疎く、鈴江幸太郎という著者もその歌の内容についても全く知らなかったが、最初そんなことはどうでもよかった。実家の倒産や手痛い離別で、東京から京都に舞い戻ったぼくには、殆ど諦めかけていた本の仕事がふたたび出来るというだけで満足モノだった。落ち込み感情はまったく無かったし何かが始まる予感もあったから、気分はじつに屈託なかった。本が仕上がると京都近郊の鈴江さん宅に二人伺った。歌人というヒトに会ったのもそれが初めてだった。およそ歌人というヒトたちは「変人」ではなく構えは気難しいが「普通」の視線を持った人々だ、などと言うと「当たり前だろ」と叱られそうだが、その時、歌を詠むという行為やそういう人に、なにか優しく、好ましいものを感じたのだった。こういう雰囲気はぼくの知ってるビジネス化した東京の版画界にはまったく無かったから。
●四六判上製本函入り。函紙(きらびき古染に利休鼠色)の「刷りだし」を印刷所に土岡さんと見に行き「もっとインクを盛って下さい」とか言った記憶がある。土岡さんは驚いていたが、ぼくはそのことに驚いた。今では若い装幀者の活躍も目だつ関西の装幀界だが、70年代の関西の環境は緩く、一部の出版社を除くと、未だ装幀は「絵描きさんの画」か「カバーのデザイン」程度の認識だった。ぼく自身も含め、装幀が本格的に吟味されるにはもうすこし時間がかかったのだ。例によって例の、バブリーな時代はもうすぐそこに来ていた。
★フロク
初音書房のあった東山区本町界隈はぼくが育ったところだった。はじめて訪れた時、道すがら不思議な感慨があった。子どもの頃から顔なじみのうどん屋や、女優の藤山直美さんが学生時代通っていた「井上パン屋」も健在だったし、通園してはいたがよく「脱走?」した保育園などもあってこのタイムスリップはとても懐かしく嬉しいものだった。編集担当の土岡忍さんは一方で白地社という文藝出版社を本格的に始めようという頃だった。歌集のみ造るちいさな「私家版製作処」として初音書房はコンスタントに仕事をこなしていった。打ち合わせが終わると土岡さんは数えきれないほどの麒麟ラガービール大瓶を出してきて、歓待してくれた。それがとうに期限切れのものだと分っても二人で飲み続けるのだったが、まことに旨いなどとは思えない奇妙なテイストだった。

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2009年3月27日 (金)

◎『枝雀のトラベル英会話』 1990年6月刊。

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 本はいろんな処に置かれるはずである。当然飾るためでなく読まれるものであるから、書架を離れ、また戻るにしても、途中では何気なくどこに置かれても不思議ではない。写真を構えて撮らなければ、あるいは観点を変えてみれば、本はまた違う貌を見せる。ということで、ごく卑近な風景のなかに置いてみる。こういう場面にふさわしい本といえば....。
 桂枝雀さんは昭和15年(1940年)神戸生まれ。昭和36年(1961年)に桂米朝さんに入門。神戸大学中退という経歴である。平成11年(1999年)、59才で亡くなった時、突然の訃報で驚いたが全国の落語ファンもショックだったろう。『枝雀のトラベル英会話』はその9年前の仕事になる。
 いきなりだが、この本の打ち上げは東梅田の「呉春」という飲み屋さんでやった。この店は料理も旨いが大阪池田の名酒[呉春]を出す。店の名もそのままである。二階の小さい座敷で枝雀さんを囲んで、創元社編集者の原章さんや落語作家の小佐田定雄さんら4,5人の小宴だった。枝雀さんは最初から麦酒じゃなく[呉春]をコップでぐいぐい飲ルのだったがこりゃあホンマもんの呑んべいだなあと感心したことを思い出す。ぼくは枝雀さんのTVレギュラー番組をよく観ていたしニューヨークで高座をもったりして英語落語の新分野に挑まれていたことも知っていた。でも落語家としての懊悩や厳しく徹底的だったことは、ずっとあとで知った。ぼくらはみな落語を聞いて笑っていただけでよかったのだが....。枝雀さんが逝かれて落語界のお仲間だけでなく、ファンの喪失感はさぞ大きかっただろう、と推測する。それにしても、枝雀さんの落語はつくづく面白い落語でした。
 カバー表紙は写真とイラストの合成だが本文中の、さいわい徹さんの四コマ漫画がこの本のいのちになっている。本文に漫画がたくさんあって楽しい本になっているが、吹き出しのセリフはみな英語だ。構成は左に四コマ漫画、右側に会話の対訳となっている。カバー表紙の顔写真は、創元社のカメラマン村山清さん(じつは製作部長)と二人で何処だったかの劇場へ(忘れてしまったが)出向いて撮らせてもらった。リハーサル休憩中に控え室のある一角での撮影だった。村山さんがカメラを構え、笑う顔のポーズはぼくがキューをだす。「枝雀さん、いきますよ。ハイ、笑ってオーケー!」とやるのである。その度に枝雀さんに笑い顔のポーズをとってもらう。枝雀さんは「笑い顔」が上手い。何回かくり返し、それでご苦労様でしたと終了。「笑ってオーケー」というのはこの本のタイトルに付くサブである。なぜこんな羽目になったか思いだせないが、撮影を仕切るなんて!装幀家はいろいろな経験をしてしまうという、好例?。
 昨年、原さんと呑み屋で死後の魂のゆくえについての談義になった。かれはこんなことを言う人もいる、とことわって「死後の魂はいろいろな魂と混ざりあって一体化しまた別れる...」というのだった。してみると枝雀さんの魂はいったん滅してしまうことになる。いのちは「絶対一回性」と考えるぼくには合致するがちょっと残念な気もする。落語家[枝雀]さんは二度と無い、たとえ再生回帰のようにみえてもやはり「似て非なるもの」なのだろう。
●新書判変型、カバー装200頁。カバー袖コピーに「型破りの英会話本」とある。笑っているうちに英語をおぼえる、というわけだ。ぼくの装幀した数少ない芸能本のうちの一冊。橙色の見返しに青ペンでサインをしてもらった。[倉本修さん江 ありがとうございました 桂枝雀]とある。

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2009年3月14日 (土)

◎『鳥恋行(とりこひかう)』久我田鶴子第六歌集 2007年12月刊。

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 昨年4月、この歌集の出版記念会が神田神保町であった。ぼくも批評会から傍聴させてもらった。パネリストも含めて歌誌『地中海』のお仲間以外にも歌人の方は多士済々であった。幾人かの知己も居たりでその後の宴は楽しいものだったが、ぼくはもっぱら油モノのおつまみを避けて(太るからではなく病の事情から)飲み放題のアルコホルに集中していた。(飲み放題に弱いのは情けないけど...)
 今野寿美さんが批評会で言われたことが頭を巡っていた。話に前後があったとは思うが、要は...この歌集は最初の歌と最後の歌に尽きる...ということだった。いろいろな批評がでたあとでの明快な発言だった。第一歌『雪上につづく足跡ためらひのあとものこして倒木を越ゆ』と最終歌『しなひつよき筋の音してわが頭上かすめ過ぎゆく鴨の五、六羽』。穿ち読めてなるほどとぼくは思ったが今野さんは最後に、装幀が羨ましいです、と言われた。以前今野さんの装幀をした者にとって微妙な話だったが...。
 久我さんには以前からなぜか厳格なイメージがあって、何となくこちらの装幀の「構え」が違うのだった。そういう感触は装幀が堅くなりがちで、今度も逡巡があり、作業が遅れていた。そろそろ装幀に取りかかろうかと思っていた矢先、久我さんご自身に初めて、お会いすることがあった。其の日、上京して砂子屋さんに寄ったら「久我さんが来てるよ」と田村雅之さん。「えっ、(そんなに簡単に言うなよ...)」なぜかまずいなと思った。先入観から苦手意識があったせいか今日はこのまま新宿辺りで呑もうかな、とも。
 話は変わるが、ぼくにはスマスマならぬ[スナスナ]という言葉がある。[砂子屋さんと砂場に行く]ことである。「砂場」というのは近くのお蕎麦屋さん、じつは飲み屋さんを兼ねる。散々飲んでから仕上げに旨い蕎麦を頂く。大体、神田だと「松屋」「薮そば」「砂場」辺りにいく。たまに有名人と出っくわすこともある。ずっとまえ粟屋和雄さんと松屋で昼蕎麦を食べていたら田中康夫さん(政治家になる前)と相席になった。真ん前で釜あげを食べている「やすおちゃん」だ。
 其の日、久我さんと田村さんとぼくとで「砂場」で飲むことになった。最初はどうも、だったが焼きのりからはじまり、天ぷらや卵焼きや焼き鳥と進み、焼きのりのおかわりを頼む頃になってすっかりいい気分になってしまっていた。つまり、麦酒から酒に変わっていたわけで、三人ともすこし酔っぱらって最後にお蕎麦。久我さんにも長い酒に付き合っていただいたが、すっかりリラックスしていい気分で別れた。醒めてみると厳格なイメージはアルコホルで霧散してしまったようだ。あとがきに「沼の底にいて天井にはった氷を意識しているような日々」を過ごされたというが、田村さんと相談して『鳥恋行』装幀に関しては兎に角、あかるさを志向すべし、だった。ここで数首、『過去からの表情をしてひとりゐる子どもはわたしわたしの子供』ここは「トワイライトゾーン」を孕む自己確認がやさしいが『なま焼けの死体の山を見しのみにだれかれの顔蹴りたくなりぬ』ちょっとお、これはもろ刃の痛々しさ。『風は吹き雷鳴りてたちまちに猫降る犬降る 猪、熊も』超現実な絵草子の趣、またはダブルトーンの休息歌として面白う。
 とりあえず危機は去ったが「人は、肉体的にも精神的にもあやうさを抱えて生きている」とあとがきは続く。今野寿美さんの第一歌と最終歌の指摘はその「あやうさ」への美神ミューズの励ましか。『鳥恋行』一冊はこの二首に挟まれた「クガ・タズコサンドウィッチ」。それを頬ばったまま...次へと行くのですね。

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●A5判上製カバー装。216頁。カバーはマーメイド紙、図版に凸凹空押しあり、タイトルは墨つや箔押し。中身は2002〜2006年までの作者の「辛い時期」の作品。装画は「鳥の羽」。具象ではない抽象、鳥の羽が孤立してある意は、じつは妖しく瞑いことかも知れない。ただ繊細に、あくまで綺麗に、そして軽やかに!アブストラクトの本懐なり。
 久我さんとはたまにメールのやりとりをしています。実際は逆ですが、風貌ではなくどうしても久我さんが年上に思えてならないのはなぜ。....どうも失礼しました。

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2009年3月 4日 (水)

◎もうひとつの砂子屋書房。[弧琉球叢書]などの南島本。

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 砂子屋書房の南島書々、総頁数3768pは実際も内容も大変に重い。『宮古のフォークロア』N・ネフスキー著、『南島祭祀歌謡の研究』波照間永吉著、『沖縄久高島のイザイホー』湧上元雄他著、『南島歌謡論』玉城政実著、『沖縄芸能史概論』『沖縄の祭祀と民俗芸能の研究』大城學著、『ムイアニ由来記』『南島小景』崎山多美著、等々。四六判カバー裝からA5判、菊判函入りまで仕様はいろいろだが、いずれも編集者田村雅之さんの胆いりの本たち。
 『南島祭祀歌謡の研究』は著者十数年の調査研究、1128頁に及ぶ歌謡論の大集成。発端は赤坂憲雄さん、田場由美雄さん、田村雅之さんの三人が八重山の島々の夏の祭を調査にやって来たこと。そこでの約束だったらしい。あとがきで波照間さんは「大部な原稿を持ち込まれて田村さんは困惑なさったに違いない」と述懐されている。田村さんという人はぼくの知る限り「短気人?」の典型だが、この原稿待ちに関しては「長気人?」といえる。この本の校正のやりとりも相当スローで変則的だったらしい。書き手も受け取り手も、気長さが産み出した大書といえる。そもそも田村さんは赤坂憲雄さん『異人論序説』や梶木剛さんの『折口信夫の世界』など文化史研究、民俗学研究書の発行に積極的であった。以前から南島を訪れては自ら祭祀研究にも何度も参加されていたようだ。「ようだ」というのはいつ、誰と同行したかが分らないからで、たとえば吉本隆明さんや赤坂憲雄さんなど数人の人しかぼくには思い浮かばない。とにかく造詣は深いものだろうと推察するが「南島」は詩人として、編集者として田村さんの心根にインスパイアするものがあったのだ。酒は避(!)けられぬものとしていつも文化の中心にあるとぼくは思う。ご当地の泡盛や焼酎の凄さを田村さんは人一倍知っているだろうし、大和人(やまとんちゅう)の欠落を彼の「南島」は注がれる泡盛のように満たしてくれるのかも知れない。
 砂子屋書房の20周年記念パーティがお茶の水・山の上ホテルで開かれたとき沖縄からの来賓が謡曲と舞を披露された。ぼくは興味津々だったが宴もたけなわだったせいか場は騒がしく、散漫になり仕方なかった。砂子屋の粟屋和雄さんが呟いた「やまとんちゅうはダメだねえ」ぼくも「そうですねえ」と苦笑し合った。

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●[弧琉球叢書]の判型は一定していない。『宮古のフォークロア』は菊判カバーで本背継ぎ装、『南島祭祀歌謡の研究』は菊判函入りで『詩歌の琉球』は四六判等々。カバージャケットはアート紙も多いが装本の基本は「丈夫につくる」だから表紙本体などは布クロスやレザック系の堅紙でまとめている。いずれにしろ[弧琉球叢書]は詩歌書出版で名を馳せる砂子屋書房のもうひとつの顏です。

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2009年2月27日 (金)

◎『夜の桃』渡英子歌集 2008年12月刊。

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奇しくも馬場あき子さん『太鼓の空間』と同じ発行日になっている。装幀作業はほぼ同じ時期だが2週間ぐらいの開きがあった。目次、「ゆふぐれの手」からの一首「あめいろの打身のあとも剥かれゆき鳥羽玉の夜の桃は匂ふも」あとがきにある表題の歌だがここからだけ装幀をイメージするにはとても難しい。いくらか選んでもらった。その中に「やわらかな瓦のせたる家並の伊予の角なしびとは菜のはな」があった。装幀のやわらかな匂いはただの一面かも知れないがどうやらポイントは其処であるらしかった。テイク1にあった「桃」は姿を消した。あとがきの無い本もいいが、有るのもいい。あとがきによると沖縄から東京へと移られても歌人としての悩みは持越されたようだ。どうやらぼくの苦手な「人がかの地に棲むことの重さ」である。

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 昨年、渡英子さんには東京の花山周子さんの歌集批評会で挨拶を交わした。装幀は先に評論集『詩歌の琉球』(08年6月刊)で先鞭をつけていた。この本のあとがきに「散文のかたちを借りた沖縄への私の相聞歌である」とある。「南島からの視線」という章に司馬遼太郎の『街道をゆく』からの引用がある。「沖縄を知るには困難さが一つある。沖縄のほかに、[沖縄問題]というもう一つの世界がある...」と。これを渡さんは「住む者にとってよく分るもどかしさ」と、ご自分の沖縄での生活体験から述懐されている。渡さんの言うように沖縄人(うちなんちゅう)と「本当の意味で知己になるのは難しい」のかも知れない。その避けて通れないもどかしさと、歌人はどう向き合うのだろう。渡さんが言うように短歌は「....彼我の差異を共有することが不得意な詩型」かも知れない。[うたう]ことは説明を加えることではないが[音]と協奏することは可能だ。和歌に対して八八八六の三十音からなる琉歌は音楽とともに在ったようである。三線(さんしん)の音とともにその四行詩は謡われたのだった。話は変わるが昔大阪の行きつけの飲み屋さんで彫刻家金城実さんとよく出くわすことがあった。最初は恐い人だったが謡が入るとすっかり陽気な踊るおじさんだった。子どもの相談をしたり、彫刻や版画の話をしたり、共通の友人がいたりで「仲良く」なった。先日偶然観た「沖縄戦」を扱ったテレビ番組に出演されていたが、久しぶりだった。元気そうだったがもうお会いする機会はないかも知れない。行きつけの飲みやさんも廃業になったからだが、たまに来阪されるのだろうか...。さらに話は変わるが『詩歌の琉球』編集製作は砂子屋書房社主の田村雅之さんの手になるものである。砂子屋書房の「弧琉球叢書」はこれで7冊目になる。田村さんは沖縄通、どの本も研究書として「重い」労作である。装幀の貌はどうなのか、は次に紹介します。

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●どちらも四六判ハードカバー装、『夜の桃』208頁、『詩歌の琉球』280頁。どちらもタイトルに墨つや箔を使用。『夜の桃』のポイントはちいさな四角形を画像に添って12ヶを浮き出し空押ししたこと。画像に被った部分が効果的だった。このようなことを嫌う向きもあるだろうがやはりここは特異な質感は欲しいところ。『詩歌の琉球』はカバージャケットに沖縄弧文様を縁ぼかし使用した。筋度の高い、がちっとした丈夫な用紙を使った。質感、質感、また質感。


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2009年2月12日 (木)

◎『太鼓の空間』馬場あき子歌集 2008年12月刊

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 馬場あき子さんの最新歌集。さすがの二十二冊目になる。05〜07年2月までの集成。初出一覧をみると短歌雑誌や新聞や通信誌などと多岐にわたっている。
「冬の都市沈黙の澱(おり)のごとき霞に沈みて悪霊のごと嘔吐するあり」「台風は石榴のみのり落としたりつくづくとその酸を嗅ぐ猫」この二首がこの歌集の入口と出口の歌。「悪霊のごと嘔吐する」「その酸を嗅ぐ猫」ともに結句が馬場さんらしいと思うのだがどうだろうか。「つくづく」猫が嗅ぐさまはなにか臭ってきて可愛い、見たことのある光景。「さまざまな駅の時間の中にある昼のカレーのほのかなあはれ」これも「ほのかなあはれ」が好き。「心乱るる」というのもある、「一夜花咲くを見てをりゆるやかに咲ききりたれば心乱るる」
 「一つのことからいろいろのことを思い出し、広げていく方法が、ようやく齢を重ねてきた私にとっては似合わしいように思われるようになりました」とあとがきにある。表題の「太鼓の空間」から一首、「大太鼓一つし打てば一つ跳び五月の寺にゐる青蛙」妙があって、音が聞こえ、色が見え、一寸可笑しくなんとも好き。

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●四六判ハードカバー装、232頁。表紙布クロスはシルキーピンク色、図案は艶けし銀箔押し。カバーのタイトルは墨箔押し。見返しと扉はキュリアスメタルホワイト。このカバーのミソはやはり三本の曲線の浮き箔だろう。マーメイド紙に箔はやはり厳しかった、現場はともかく課題は残った。バックのピンクは最初はただのグラデーションだったが、最終的には少し緑の入った淡い桃空の映像を4色で分解した。本文は勿論、いま一番新しい!活版刷り。


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2009年2月 7日 (土)

○長征社という情熱

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 長征社の主宰、市山隆次さんとは長いつきあいになった。83年に若一光司さんの文藝賞の受賞を祝う会が大阪であり二次会場で若一さんから紹介を受けた。「装幀事務所」の名刺を渡すと市山さんは「ほう、」と言った。「ほう、」というのは名刺に「装幀事務所」があったからだが「関西でめずらしい」と言われたことを憶えている。のちに大阪で岩波の編集者であり装幀家の田村義也さんに渡したときも同じ「ほう、」が返ってきた。ついで「デザイン事務所じゃないんですね」と微笑まれた。この名称はたぶん日本で一つしかないだろうという自負はあった。(それがどーしたの、と言われても仕様がないが)それじゃあデザイン事務所ではないのか?わたくしはデザイナーではないのか?「じつはそうなんです」という「装幀家とブックデザイナーの違い」は長くなるので、また後日。
 さて市山隆次さんだが最初の印象は眼がぎょろっとして太っ腹で海賊みたいだった。失礼な話だがとても出版社の人には見えなかった。今まで見たことのないタイプ、眼光するどい事件記者のようでもあった。後日、西中島南方という地下鉄の駅の近くの事務所に出かけた。新しいエッセイ集の件だった。大きな倉庫のようなワンルームがその海賊の住処(?)だった。段ボールの山と草野球用の野球のバットやミットが目立った。やはり変わった出版社だと思った。名著、北井一夫『新世界物語』で知る人ぞ知る版元だったがその当時は未だ発行本は少なくノンフィクションものでは関西随一になるのはずっと先のこと。ざっと思いつくだけで『ジンバブエ』『シベリアをわたる風』『議会という装置』『私は女』『がんばれコータ』『ジュンパ・ラギ』『陛下にヨロシク』『われら國民學校生』『上海ちゃんぽん』『少女宣言』『瀬戸内海底探査』『望郷のシンフォニー』『父・KOREA』『理想のゆくえ』『ジンバブエ・収穫の秋』『草とり草紙』『トランの国』『走れ藤村』『女・仕事』(順不同)等々…。どれもこれも広範な社会性を孕み人間味に富んだ興味深い本ばかりだ。この本の多くはぼくが装幀させてもらったが懐かしい思いが山ほど詰まっている。
 市山さんは「面白い」と感じた著者やテキストには無類のエネルギーを発揮する。装幀にもきびしい。校門圧死事件を扱った『少女15歳』などは喧々諤々ついに最後にはあらゆる画像はトルだった。質感の強い用紙に大きな墨箔の文字があるだけである。市山さんの強気が心配になったぐらいだ。多くのノンフィクション本はインパクトを求めてショッキングな写真や画像を前面に押し出す。市山さんは本文に写真を数多く入れるが、表紙やカバージャケットはシンプルなものを好む。装幀者はまずその骨太志向と対決しなければならない。市山さんと著者の付き合いも独特だが「喧嘩上等」がその主流にある。「う〜ん成るほど」と唸ることもあるが、「ちょっと違うんじゃないの」と思うこともある。つい部数について忠告してしまったり、装幀者の分をこえて言わずもがなのことだが言ってしまう。知らぬ間にシンパになってしまっている。市山さんの熱さは直球もあれば変化球もあるがかれの球を受けていると必ずしも決め球にならないこともわかる。だからどんどん先へいったのだろうと思う。
 長征社のファンは多い。それは出す本に魅力があるからである。ぼくの知る限り手弁当で編集に参加したいという編集者は一人や二人ではない。読者や編集者をこれ程惹きつける出版社もそうない。しかし、である。「経済」が阻む。どこの出版社もそれに苦慮していることを忘れてはならない。とくにベストセラーやロングセラーを持たない中小の規模だと企画を間違えると致命傷になる。長いこと装幀で関わったから理解できることも多いが、市山さんは人に負担を強いることの辛さでくたくたになっていたと思う。いかに「熱と理由」があろうとも各種圧力を受けるとムリがうまれる。市山さんが病を得るに及んで、全速で奔ってきた長征機関車はいまは停止している。
 長征社出版の魅力は「出したい本を出す」という単刀直入な態度にあると思う。そんなこと無茶だと大抵の人は言うが内心羨んでいるに違いない。それは出版の原点を内包しているからだ。単独だから出来る出版のかたちもあるのだろうし、ゲリラには社会の「撃鉄を起こし引き金をひく」というそれなりの役割がある。ちかごろ流行りの売れるタレント本などは笑止論外。何もかもベストセラー万歳ではないことは猫にでもわかることだニヤア。
 神戸元町のおでん屋で市山さんにご馳走になったことがある。鍋の中の煮詰まった具材は各々が長征社が出した本のようだなと思った。みな味つけは同じで色合いも似ているが口に含むとまったく味が違う。怒りや微笑みをもって、愛情を持って、いまの時代にこそ長征社を待望したい。

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◎『ZIMBBWE ジンバブエ』 1997年10月刊

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 著者の高橋朋子さんは南部アフリカのジンバブエで十数年、暮らしている。原稿は首都ハラレからのファクスで送り続けられたもの。冒頭にある第一章「アフリカの扉」から引用すると「なぜアフリカに来たのか。それはジャマイカで生まれた音楽、レゲェに魅せられたからだ。(中略)その頃ジンバブエは、白人政権ローデシアが、すでに独立を認めたかのように見せかけるためにつくった“ジンバブエ・ローデシア”政府で、ボブ・マーリイはこの年[生き残るもの黒人(SURVIVAL)]というすばらしいLPを発表し、その中で、この独立の戦いを支援する[ジンバブエ]という、美しい虹のようなコーラスで終わる曲を歌っている」とある。高橋さんは音楽プロダクションのデイレクタ−としてさすがに詳しいがとくにレゲェ、ボブ・マーリイの熱烈なファンだ。ボブ・マーリイに捧げる小説家中上健次さんの詩や、マンガ家狩憮麻礼さんの『青の戦士』や、ハイネ・ヘリマ監督の映画「3000年の収穫」についての言及があり、この章の最後にはこう締めくくっている。「アフリカに行ってみよう。新しい音階のような、美しいひびきをもつ国の名、ジンバブエ。アパルトヘイト下から独立を闘いとったという、その国にも行ってみたい」「ボブ・マーリイの歌は、アフリカへの扉だった。その扉の前に立つことができたのは、あの大阪のフェステイバルホールでのコンサートの7年後である」と。そのライブは相当すばらしいものだったようだが、ぼくのレゲェについての不明はともかく「歌が扉を開ける」などとは羨むべき話だと思う。歌のちからが本当に人を動かす、という典型であろう。

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●A5判ソフトカバー3色刷り。268頁。ジンバブエの風景、人々の写真、絵、乗車券やポスターカードなどがワイルドに挿入されていてリポートに立体感を与えている。「人種差別」やいわゆる「混乱のアフリカ」だけでなく人々の身近な生活も理解できる。ちからをもらえるお勧め本。装幀はずばり、カバー、表紙、見返し、帯、厚めの[レザック96オリヒメ]でまとめ、手触り感を重視した。ぼくも気に入っている一冊。続編『ジンバブエ・収穫の秋』は2000年6月に刊行された。その長征社編集部のまえがきには「西側」情報に囚われている日本人のためのリポート、とあった。なるほど。     

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