2015年4月21日 (火)

『美しい動物園』に届いた感想をご紹介②

以下、産経新聞夕刊(平成27年3月13日分・西日本版)に掲載されました。

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◎絵に寄り添って紡がれた物語
『美しい動物園』

 装丁家として手掛けた書籍の数は4千点以上。一方で、
文章の創作も続けてきた倉本修さんが、文と絵で綴った
『美しい動物園』が今月刊行される。(中略)
「この動物園の特徴のひとつはめったにお目にかかれな
い動物がたくさんいることだと友人から聞いていた。少
々危険だとも…」(中略)
 現代詩中心の文芸誌だけに、倉本さんの文章、文体も
個性的で独特。現代詩を複雑に組み合わせたような構成
で、私小説などと違って簡単には作者の意図が理解でき
ない“仕組み”になっている。(中略)
 一方、今回のような文と絵を手掛ける際はどうなのか。
詩人の佐々木幹郎さんが、その創作過程をこう解説して
いる。
「倉本修は絵を描いてから考える。…まず線を描いてか
ら想像力を駆使する。絵の物語が始まる」
 いわば装丁後、その絵に寄り添う文章が紡ぎだされた
ような…。それが本著である。  (戸津井康之)

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『美しい動物園』に届いた感想をご紹介①

時里二郎ブログ「森のことば、ことばの森」より

 料理店でこの本をいただいたので、まだ少ししか読んでいないが、思わず引き込まれて読んだのは「R421」という、至福の快感をもたらす目薬の話(この作品はとりわけ秀逸で、倉本さんの或る種のユートピアの原型かもしれない)その冒頭の部分だけでも十分にその魅惑を伝えることができる。

 「河川の水面は源流から支流へその表情を変えてうねってゆく。それは異星人ダ・ヴィンチの描く水流の素描のように激しく泡立っている。やがて水面は少し凪ぎ、ゆったりと広がり本流として流れていく。其処の水たまりの川面に多くの小魚の死骸が浮いている。(中略)
 あなたは陽に反射してキラキラ輝くそれらを手に掬い、すべての魚体の眼球だけが無くなっているのに気付くだろう。そして驚く、眼の部分がぽかり空いている眼球を失った小魚たちの顔は清々とした至福の表情に近いことに。『まさか魚が微笑むわけなどない』とあなたは自分自身を疑い首を振り、まさかと思うだろう。(「微笑む魚」−『R421 についての覚書』)」

 こうして始まる作品は、綺譚の枠を嵌めているが、いつかしらその額縁が溶けていって、倉本さんの美術家としての原型的な世界にまで踏み込んでいくようなスリリングな体験を味わう。
 表題作の「美しい動物園」もそうだが、言葉の出し入れが、まさにdrawing的。しかし、思いつきのようにして始まる奇天烈な話の書き手(話者)は、あくまでも醒めている。言い換えれば、しっかり譚の宇宙を統御している。
 なお、この本には栞が挟まっていて、江戸雪、佐々木幹郎、品川徹、坪内稔典といった方々が書いていらっしゃるが、これがまた面白い読み物。

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2015年4月 4日 (土)

久しぶりの更新ですが、ご案内です

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この度私にとって30数年ぶりの出版となる『美しい動物園』を刊行する運びになりました。
詩誌「イリプス」に長らく連載していた絵と文を比較的自由にまとめたものです。あえてジャンルは触れません。読者の方の解釈にゆだねたいのです。
ご興味を持たれた方は、ぜひとも版元である「七月堂」さまのホームページをのぞいてみて下さい。4月満開の桜に合わせるかのように無事見本もできあがり、現在注文受け付け中です。

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2014年1月30日 (木)

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神山睦美『それからから明暗へ』 1982〜95年刊  河合隼雄『カウンセリングを考える上・下』ほか1999年刊

◎美しい色紙(いろがみ)
 
 ややっこしい複雑な切り絵はしないと決めたのはアンリ・マチスの切り絵「ジャズ」のシリーズの影響を受けたからだろうか。当のマチス自身は歳をとって視力が弱くなって、この選択肢を選んだ。色彩家マチスとしては失念と希望の交ざりあった作業だったのだろう。
 ぼくはとくに眼を患ったこともなく、未だ視力が弱まってもいない。ある時、十数枚の色紙をじっと見ていて綺麗だと思ったのが切っ掛けだった。じっさい綺麗な色面にハサミを入れるのは勇気のいることだ。大袈裟にいえばマーク・ロスコの絵にハサミを入れるような気分だが、情熱的に切り間違えや訂正を恐れずにやらなければ成功を得られないだろう。
いつか見た山下清の切り絵が頭をよぎる。かの集中力…。

♠色彩計画は一に調和、二に調和。肝心なのは書籍バランスを壊さないこと、を意識して。切って貼って、また切って。

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◎誰でもやってみて欲しい切り絵

 矩形・円・三角・雲型・波型など、定型・不定型を問わずあらかじめ一定数切っておく。明度の差を違えて三原色も揃えておく。これらを組み合わせ、作業中に変化させる。指でちぎったり、切り直したり。装幀に使用することを前提にはしているが興が乗ると貼りが過剰になり、結局最後には引き算になる。コラージュもそうだが、この引き算の程度が畢竟決定的なのだ。
 皮膜力の弱い色紙を選び、重ね「透き」を活かすように貼り込み、それが意外な効果だったりする。
 絵と文字を組み合わせる前にやるべきことはやったが、文字要素が意識され画の選択も変化する。表現の組み合わせが決まればそれで一段落。用紙の選び方や印刷手法の選択など、あとは全体の自らの「流れ」にしたがえば上出来を得られる。ぜひやってみてください。

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◎本はその姿を変える

 生前の河合隼雄さんはさすがの重版率だ。神山睦美さんの評論集はまあまあでしょう。そして出版社の意向もあって新版ごとに装幀は変わっていく。現在、ロングセラー本たちは、またその姿を変えていることだろう。時間を静かにふりかえるたびに、用紙の問題や印刷・製本の事情、環境の変遷を思う。デジタル時代になって久しいが、装幀も昔はもうちょっと近い距離にあって、実感がともなったものだ。今では手仕事を失ったスピード感の中で、虚を見て実を作り出すしかない、そんな感じである。
 昔は本の構造を知るために本の解剖までしたものだった。つぎは水に浸かった本の話です。

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2013年12月12日 (木)

銅版画修行など

◎不意に憶いだした竹田和子さんのこと

ぼくが二十代の頃、師を持たない自由さを好しとしていた時代の話。
 吉祥寺の版画学校で竹田和子さんに数カ月にわたって、マンツーマンでメゾチント技法の手ほどきを受けたことがある。竹田さんは駒井哲郎さんのお弟子さんだが当時彼女のメゾチント[Never Land]シリーズは評判の作品群だった。美術ジャーナリズムにも好評で詩人の岡田隆彦さんと詩画集を発表したりで、竹田さんは版画界新進のスター的な存在だった。
 濃密なビロードのような漆黒の闇から、光りを磨き出す作業。その漆黒をつくり出すだけの地味な最初の版作りがこのメゾチント技法の基本である。それは美大の油画科で自由に油絵などを描いていたぼくには一転して大変な試練だった。「画」ではなくまず周到に「版」を作るこの禁欲的な作業をくり返し作品に至るには、それこそ竹田和子さんのような優れた職人性と芸術的情熱が必要なのだと思う。
 装幀画家として、版画におけるオールラウンドプレーヤーを目指していたぼくがなぜこの版種を選んだか、いまだによく分からない。結局のところ時間的なものもあって、当初の予測どおり(体験的に理解は出来たが)メゾチント技法を習熟達成することは出来なかった。ただ、竹田さんの緻密な作品をまえに「ううむ」と唸るだけであったのだ。


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  駒井さんが亡くなった時、師を失った竹田さんのダメージは大きく葛藤も深刻だったろうと推察する…(ま、これは余計なこと、想像の域であるが)当時若輩のぼくには只々銅板に点をうつ、気の遠くなるようなメゾチント技法に「くたくた」になっていたのだ。この小さな教室には桐村茜,秋庭宏行、
林和一くんらがいたが、この版種を選択したのはぼくだけだったのも頷ける。今は在パリのエッチャーとして活躍しているアカネ(桐村茜)が「よくやるわね」などと半ば呆れていたぐらいだから、忍耐は周知のことだったのだろう。当時も今も畢竟、迂闊で無頓着なぼくならではの話です。

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◎「詩人」と言われてもね
 
 先の二人は銅版画家だが、木版画も履修していたのでこちらは城所祥さん(木口木版)、美大以来からの北岡文雄さん(板目木版)に教示を頂いた。当時は「さん」呼びだったのだが、いまは「先生」と呼ぶのが宜しかろうと思っている。(普通、逆だけど…)その北岡先生が、会う人ごとにぼくのことを「詩人」の倉本くんだよと紹介されるので大変困惑していたのだ。
 ついにある時「先生」に、その紹介は照れくさく且つ、腑に落ちないのでやめて下さいと頼んだことがある。北岡先生は笑みを浮かべて「きみはいつも詩集を持って歩いているだろう。そのうえ、たいていは俯(うつむ)いているじゃないか。それは詩人の感性なのだよ」とおっしゃった。なるほど、その頃の写真をみると、頭の中はノイローゼ気味だったし、東京生活に慣れない無口な、青白い顔の俯く青年だったのだが…。
 北岡先生はその後も変わらず、ことあるごとに「詩人、詩人」と紹介されるので、時には詩集を読ませて欲しいなどとおっしゃる方もいたりして、まことに閉口したこともあった。詩はたしかに好きだったから美大時代に自分でも書いていたこともあったが、やはり詩人は言葉を書き紡ぐ人であると心得ていたもので……北岡先生の言いようは唐突以外の何ものでもなかったのだ。(中略)のちに了解したことだが「詩人」とは一つの感性のあり方、言葉を使わなくとも詩人、「きみは銅版画詩人になりなさい」という北岡先生の言葉は、今思い起こすとなかなか含蓄ものだったと思う。
 ところであまりにグラフィックな現代に、あえて「装幀詩人」というのも悪くはないのかも知れない。

(イリプス11号・詩書雑感9[「詩人」と言われてもね]から抜粋、再構成)
 

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2012年8月17日 (金)

◎田村雅之第十詩集 『水馬』 2011年10月刊。

 装幀者として友人の出版記念会や受賞パーティに招かれることが多い。どうしても、と依頼されるスピーチはご本人に関する裏話を少しだけ披露するようにしている。装幀も含め、誰もが舞台裏を覗きたがっているようだ。幸い?にも田村雅之さんについての裏話をする機会はまだないが、話はとめどもなく続きそうでなんだか怖い。長いつきあいは仕事のみならず決定的なものを含んでいるように思うし、装幀の薫陶を受けたことや、抱腹の面白きエピソードも数知れないからだ。


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  詩集『水馬』は2005〜11年春までの約6年間の集成である。けっして短いスパンではないが第一詩集『さびしい朝』以来40年間にわたっての10册目の上梓になる。そして七月堂からの第3詩集『ガリレオの首』以来、ぼくが装幀に携わっている。
 この詩集後記に「水馬とは、乗馬で水を渡る法をいう…」とある。田村さんは『平家物語』の佐々木高綱と梶原景季との「宇治川の先陣争い」を憶うらしいが、ぼくは去年みた映画『トゥルーグリット』の父を殺され、復讐に燃える少女マティが馬を操って深い河を渡るシーンを思い浮かべる。

 単純に人馬一体になる泳法と理解すれば、むかしテレビ映画『ローハイド』のカウボーイたちが牛を追って渡河するシーンもそうだろう。牛馬ともに溺れるように渡っていくのを見て、子ども心にそのワイルドさに「カッコいい!」と思ったことを憶えている。
 田村さんはその幼少期、小刀の柄に佐々木高綱の名を彫って遊んでいたというから「宇治川の先陣争い」はごく自然な発想だろう。(ぼくはローハイド…)いずれにしろどの国にも河は在り、乗馬による渡河の情景は絵になる。
 (詩人によると、水馬は[あめんぼう]の意としてもあり、この詩集においてはイメージの転換や自在さへという希望を孕んでいる…と)
 
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田村詩編の抒情風景を眺めているうちに、ぼくの頭のなかに詩人の故郷、高崎や前橋の風景が立ち現われては消える。それも厩橋と言われた古い時代の、中世から近世に向かう、突風をともなって現われる野景のイメージなのだ。上杉謙信と北条氏康の争っていたあの頃の関東平野…詩人を知っているがゆえのぼくの勘ばたらきだろうか。なぜだろう、かれが津軽を詠おうが松阪を詠おうがそうなのだ。詩人は、かの地にとらわれ、かの地も詩人をとらえる、そんな感じである。かっての抒情の「地」は現世から遊離し孤独をともない、詩人へと還流していく。それが詩人田村雅之の底流にある孤高の「時間」なのか。

 ずっとまえ馬場あき子さんが田村さんの詩篇には「和文脈が仕組まれている」と書いておられた。詩的効果を生み出す枕詞の名手とも。詩篇にふれるたびに、ぼくはただ瞠目することが多かったが今頃になって、なるほどそうかと頷ける。田村詩の味わい深さの一端はそこにあるのだろう。


[社主としての田村さん]

 田村さんが砂子屋書房を立ち上げたとき、古典的な学書、それも江戸幕末の古書をイメージしたのではないだろうか、と思うときがある。とにかく古流なのだ。そして、田村さんのその折の弁は「売れるものを出したい」ではなく「いい装幀の本を出したい」がその第一だった。真面目に活版フォームにこだわり今の時代の騒音を遮断し、独りゆく感がある書肆である…これこそがまさに小さな大出版社、田村流ではないか。
 ぼくたちはよく、酒を飲みながら夜を徹して本の装幀の話をしたものだった。若かったぼくは田村さんの「いい本を造る」考え方をそのあたりで学び、たっぷりのアルコホルにのせて吸収していたに違いない。


[陋巷に死す]  悼・奥村真  (田村雅之詩集『水馬』より)

七曜の一日、当世では風のたよりにというが
秋愁索莫たる刻に
ひともと心宮にねじりこむよう
氷室の槍が耳に入った
ねじの主は言う「オクムラシンガシンダ」
すべてが仄聞だが、とことわったあと
一か月前、福生の呑み屋でやくざに殴り殺された、と
奥村といえば四半世紀以上も前
詩集を出版したいけれど金がないから、銀行強盗をするという
半ば本気な冗談を聞いた友人たちは金を集め
『忌臭祓い』という詩集を出してあげた
-中略-
残された奥さんの節さんに中津川の栗名月ならぬ栗饅頭をと
和菓子屋の店前に並べば
空窈(ふか)い小春日和のうしろぜあたりから
幻花のかなしみが般若のひかりに束ねられ
まぼろしの山なみから青さやぐ蘆むらうえを
ふいっと一陣の風が立ち
心宮の箱がかたかたっと音たてるのが
幻聴のように聞こえてくるのだった

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この詩は『水馬』の後半部にある「陋巷(ろうこう)に死す」からの抜粋。皆の友人だった詩人奥村真への追悼の詩。詩文にある『忌臭祓い』という詩集はぼくの初期の頃の装幀だ。奥村くんとはそれを機につきあいが始まった。田村さんたちと神田界隈やゴールデン街でも幾度となく飲んだ。阿佐ヶ谷の奥村邸にいくと台所の床から次々に瓶ビールがでてくるのが不思議だったものだ。ウオッカなどを経て終宴に到るとビール+トマトジュース(濃いめレッドアイ)が好みだった。いつまでも延々と飲み続けたり、次の日の朝から飲むにはもってこいの飲み物だ。

 「奥村真死ス」の報が関西に流れたときに友人の詩人たちから、つぎは倉本修だろうという話がでた。季村敏夫から電話がきて「気ぃつけなあかんよ」とか瀧克則や大西隆志からは「今度はクラちゃんかなぁ」とか冗談のように彼らは言うのだったが、ぼくはかなり前からバンカラ・デカダン・無頼とは無縁になっているし、そんな事故にはならないだろうに心配ご無用、といいたいところだ。砂子屋書房の高橋典子さんが「バンカラもデカダンも無頼も、時代遅れですよ」と言っていた。その通りですね高橋さん。


 奥村くんとは生まれ年も月も同じ。数日かれが遅く生まれただけだ。ぼくが京都のギャラリー三条で個展したとき、会場まんなかの床にどかっと胡座をかいて酒を飲んでいた。普通ならつまみ出されるところだがソフトないい男ぶりであったので、画廊にも観客にも抵抗なく受け容れられていた。そんな時かれの周りに俗物は一人として在ない感じがした。不思議な男である。その折の写真をみるとニヤリ、ニヒルな笑い顔である。

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どういう訳だか…その時の水彩画は売れに売れた。初日に写真家の宮内勝さんが不意に訪れて絵の価挌を全部決めてくれ、かれ自身一点買い上げてくれた。不思議な出来事だったが、これもオクムラ効果だったのかも知れない。後にその絵は山中智恵子さんの『鶺鴒界(せきれいかい)』カバー装画に使うことになり東京で宮内さんに会って貸し出ししてもらった経緯がある。


 奥村くんの死については、田村さんの詩にあるように「ひともと心宮にねじりこむよう」に皆聞いた。詩集『忌臭祓い』の帯文は佐々木幹郎さん跋文から、田村さんが選んだ。ヘッドコピーは奥村君の詩『栗名月』から「みんな廃めちまえ と欠けた月」続けて[奥村真は都会の路地の片隅にある八百屋の二階に住んでおり、職業は? と聞けば、「渡りのバーテン」と答える。ロシア語を愛し、つねに酒瓶 を手元から離さない。酔っぱらっては陋巷に窮死することが夢であると語る。(佐々木幹郎)]そういえばいつも栓抜きを持ち歩いていたっけ…。その通りの死にようだった。

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2009年9月28日 (月)

◎岡井隆『けさのことばⅠ・Ⅱ』 2007年12月・2009年・3月刊。

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この数冊は中日新聞の朝刊コラム『けさのことば』2001〜06年連載分をまとめたもの。あとがきに「朝のコラムでありますから、できるだけ明るく前向きの内容をこころがけて...」とある。
 大岡信さんの『折々のうた』や坪内捻典さんの『季節のたより』などと同様に新聞の片隅に120字程度の短い文章で解説感想を加えているもので、たいていの新聞にはこういうコラムがある。内容は短歌、俳句、詩、古今東西の人生訓、箴言など各種である。毎日のことだから数年分だと大変な量になる。これらの本はだから分厚い。巻末の索引を入れるとおよそ600頁。むろんこれでも抜粋なので、1984年から25年間となれば相当な量だ。
「どの路地も海に通じて十二月」
という坪内捻典さんの俳句が載っている。「海は明るくて展望の開ける場所なのだ」と岡井さん。ごく最近、坪内さんと飲む機会があり、「どうですか」「何も変わりませんよ」という会話。いつもそうだが、句風と違って何気ないのがこの俳人(ひと)の特徴だ。マッコリ酒をおすそ分けすると「強いのはあまり飲めないので」と言ってひと口、そのあと麦酒をちびっと。白髪の下の顔はすでに赤い。こんなのもある、
「責めらるればひきしまり、惠まるれば弛む」。
前後があるが、ぼくが崇拝するウィリアム・ブレイクの[地獄の格言]にある言葉だ。岡井さんは「苦悩の人生を生きたブレイクは恵みによってゆったりとする憩いの時を望んでいたのではないか...」と。
 画家ブラックや西行やゲーテやヴィトゲンシュタインのことばもある。文型として小さく読みやすくなっているがぼくはやはり「ニュアンス」の残し方に岡井さんの妙を感じている。答えを用意せず、断じがなく、やさしいのである。朝刊のコラムというのはかくありなん。

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●A5判変型本。ホントはこの判型で他に3種ある。また86年発刊の二巻は四六判変型、三冊めは四六上製とご覧のように全巻まちまちのサイズ。最近の二册は日本伝統文様からそれぞれ「紫陽花」「黒水仙」の図案を使用。二冊ともカバー用紙はクロコGA。見返しや表紙はオリヒメとかシマメとか、ざらついた質感の紙を選んだ。こういう本には当然ながら質感。右は皇室向け特装本。スカーフマチエール紙と本クロスとの背継ぎ装。もちろん普及装もある。

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2009年7月19日 (日)

◎『書物の時間-ヘーゲル・フッサール・ハイデガー』芦田宏直著 1989年 12月刊。

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あるとき調べものをしようと本棚のまえに坐る。すると二層になっている書架の奥から何冊か哲学論文集が現われた。懐かしい顔をもつ数冊だ。たとえば現象学はメルロ・ポンティの「知覚の現象学」を学生時代に読んだきり。身体性の現象云々だったか、今ではほとんど憶えてはいない。確実なことは20歳でしか読めなかっただろうこと、その折の理解はたいへん不十分だったろうということだ。ほとんどの現象学は各々の境界を持ち、重なりあい、また突き放しあっているらしい。ぼくらの「表現」というものの本質もそのようなものだと思う。ぼくは危うくも哲学的に「哲学」の周りを歩いたり、止まったりしているだけなのだろう。いま読むと、この本はポストモダンとのコレ−ションも含まれていて内容もその時点で意欲的。
 最近になって装幀として、これら哲学書の捉え方は「読んでちゃ」とても成り立たないと思うようになった。その点で編集者がいることの意味は大きく、かれへの取材無くばおおよそ装幀など完成しないだろう。
 著者の芦田さんは早稲田大の大学院出、新鋭36歳の本だった。しかしいつものことだが、思い出すのは酒を飲んだことばかり。たしか京都八瀬の温泉から、芦田さんの親戚だったかの貴船の料理屋にまで招かれて、次から次ぎへとまあよく食べよく飲んだものだった。

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●四六判上製カバー装。368頁。カバーはアート紙だが色数は4色、マット加工をしている。表紙はボス、見返し用紙NTラシャ。この頃ぼくの用紙の選び方は特に高価でもなく所謂「普通」だった。但し帯についてはパールインキべた文字白抜きでちょっと贅沢?かも。いま読むと、序と本文についての「ヘーゲルと書物の時間」などは比較的解り易く、門外漢でも成る程と面白い。帯のヘッドコピーは「存在と時間の形而上学をめぐって」とある。いまは亡き澤田都仁氏が考えたのだった。

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2009年7月17日 (金)

◎『雪後集(せつごしゅう)』鈴江幸太郎歌集 1981年7月刊。

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 暫く忙しく働いたせいか、ブログがすっかり留守になっている。なかなか気楽なもんだ。
 この本がはじめての歌集装幀になる、ぼくの記念すべき地味な!一冊。版元は京都の初音書房。編集は土岡忍さん。当時のぼくは歌界に疎く、鈴江幸太郎という著者もその歌の内容についても全く知らなかったが、最初そんなことはどうでもよかった。実家の倒産や手痛い離別で、東京から京都に舞い戻ったぼくには、殆ど諦めかけていた本の仕事がふたたび出来るというだけで満足モノだった。落ち込み感情はまったく無かったし何かが始まる予感もあったから、気分はじつに屈託なかった。本が仕上がると京都近郊の鈴江さん宅に二人伺った。歌人というヒトに会ったのもそれが初めてだった。およそ歌人というヒトたちは「変人」ではなく構えは気難しいが「普通」の視線を持った人々だ、などと言うと「当たり前だろ」と叱られそうだが、その時、歌を詠むという行為やそういう人に、なにか優しく、好ましいものを感じたのだった。こういう雰囲気はぼくの知ってるビジネス化した東京の版画界にはまったく無かったから。
●四六判上製本函入り。函紙(きらびき古染に利休鼠色)の「刷りだし」を印刷所に土岡さんと見に行き「もっとインクを盛って下さい」とか言った記憶がある。土岡さんは驚いていたが、ぼくはそのことに驚いた。今では若い装幀者の活躍も目だつ関西の装幀界だが、70年代の関西の環境は緩く、一部の出版社を除くと、未だ装幀は「絵描きさんの画」か「カバーのデザイン」程度の認識だった。ぼく自身も含め、装幀が本格的に吟味されるにはもうすこし時間がかかったのだ。例によって例の、バブリーな時代はもうすぐそこに来ていた。
★フロク
初音書房のあった東山区本町界隈はぼくが育ったところだった。はじめて訪れた時、道すがら不思議な感慨があった。子どもの頃から顔なじみのうどん屋や、女優の藤山直美さんが学生時代通っていた「井上パン屋」も健在だったし、通園してはいたがよく「脱走?」した保育園などもあってこのタイムスリップはとても懐かしく嬉しいものだった。編集担当の土岡忍さんは一方で白地社という文藝出版社を本格的に始めようという頃だった。歌集のみ造るちいさな「私家版製作処」として初音書房はコンスタントに仕事をこなしていった。打ち合わせが終わると土岡さんは数えきれないほどの麒麟ラガービール大瓶を出してきて、歓待してくれた。それがとうに期限切れのものだと分っても二人で飲み続けるのだったが、まことに旨いなどとは思えない奇妙なテイストだった。

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«◎『枝雀のトラベル英会話』 1990年6月刊。