装幀者として友人の出版記念会や受賞パーティに招かれることが多い。どうしても、と依頼されるスピーチはご本人に関する裏話を少しだけ披露するようにしている。装幀も含め、誰もが舞台裏を覗きたがっているようだ。幸い?にも田村雅之さんについての裏話をする機会はまだないが、話はとめどもなく続きそうでなんだか怖い。長いつきあいは仕事のみならず決定的なものを含んでいるように思うし、装幀の薫陶を受けたことや、抱腹の面白きエピソードも数知れないからだ。
詩集『水馬』は2005〜11年春までの約6年間の集成である。けっして短いスパンではないが第一詩集『さびしい朝』以来40年間にわたっての10册目の上梓になる。そして七月堂からの第3詩集『ガリレオの首』以来、ぼくが装幀に携わっている。
この詩集後記に「水馬とは、乗馬で水を渡る法をいう…」とある。田村さんは『平家物語』の佐々木高綱と梶原景季との「宇治川の先陣争い」を憶うらしいが、ぼくは去年みた映画『トゥルーグリット』の父を殺され、復讐に燃える少女マティが馬を操って深い河を渡るシーンを思い浮かべる。
単純に人馬一体になる泳法と理解すれば、むかしテレビ映画『ローハイド』のカウボーイたちが牛を追って渡河するシーンもそうだろう。牛馬ともに溺れるように渡っていくのを見て、子ども心にそのワイルドさに「カッコいい!」と思ったことを憶えている。
田村さんはその幼少期、小刀の柄に佐々木高綱の名を彫って遊んでいたというから「宇治川の先陣争い」はごく自然な発想だろう。(ぼくはローハイド…)いずれにしろどの国にも河は在り、乗馬による渡河の情景は絵になる。
(詩人によると、水馬は[あめんぼう]の意としてもあり、この詩集においてはイメージの転換や自在さへという希望を孕んでいる…と)
田村詩編の抒情風景を眺めているうちに、ぼくの頭のなかに詩人の故郷、高崎や前橋の風景が立ち現われては消える。それも厩橋と言われた古い時代の、中世から近世に向かう、突風をともなって現われる野景のイメージなのだ。上杉謙信と北条氏康の争っていたあの頃の関東平野…詩人を知っているがゆえのぼくの勘ばたらきだろうか。なぜだろう、かれが津軽を詠おうが松阪を詠おうがそうなのだ。詩人は、かの地にとらわれ、かの地も詩人をとらえる、そんな感じである。かっての抒情の「地」は現世から遊離し孤独をともない、詩人へと還流していく。それが詩人田村雅之の底流にある孤高の「時間」なのか。
ずっとまえ馬場あき子さんが田村さんの詩篇には「和文脈が仕組まれている」と書いておられた。詩的効果を生み出す枕詞の名手とも。詩篇にふれるたびに、ぼくはただ瞠目することが多かったが今頃になって、なるほどそうかと頷ける。田村詩の味わい深さの一端はそこにあるのだろう。
[社主としての田村さん]
田村さんが砂子屋書房を立ち上げたとき、古典的な学書、それも江戸幕末の古書をイメージしたのではないだろうか、と思うときがある。とにかく古流なのだ。そして、田村さんのその折の弁は「売れるものを出したい」ではなく「いい装幀の本を出したい」がその第一だった。真面目に活版フォームにこだわり今の時代の騒音を遮断し、独りゆく感がある書肆である…これこそがまさに小さな大出版社、田村流ではないか。
ぼくたちはよく、酒を飲みながら夜を徹して本の装幀の話をしたものだった。若かったぼくは田村さんの「いい本を造る」考え方をそのあたりで学び、たっぷりのアルコホルにのせて吸収していたに違いない。
[陋巷に死す] 悼・奥村真 (田村雅之詩集『水馬』より)
七曜の一日、当世では風のたよりにというが
秋愁索莫たる刻に
ひともと心宮にねじりこむよう
氷室の槍が耳に入った
ねじの主は言う「オクムラシンガシンダ」
すべてが仄聞だが、とことわったあと
一か月前、福生の呑み屋でやくざに殴り殺された、と
奥村といえば四半世紀以上も前
詩集を出版したいけれど金がないから、銀行強盗をするという
半ば本気な冗談を聞いた友人たちは金を集め
『忌臭祓い』という詩集を出してあげた
-中略-
残された奥さんの節さんに中津川の栗名月ならぬ栗饅頭をと
和菓子屋の店前に並べば
空窈(ふか)い小春日和のうしろぜあたりから
幻花のかなしみが般若のひかりに束ねられ
まぼろしの山なみから青さやぐ蘆むらうえを
ふいっと一陣の風が立ち
心宮の箱がかたかたっと音たてるのが
幻聴のように聞こえてくるのだった
この詩は『水馬』の後半部にある「陋巷(ろうこう)に死す」からの抜粋。皆の友人だった詩人奥村真への追悼の詩。詩文にある『忌臭祓い』という詩集はぼくの初期の頃の装幀だ。奥村くんとはそれを機につきあいが始まった。田村さんたちと神田界隈やゴールデン街でも幾度となく飲んだ。阿佐ヶ谷の奥村邸にいくと台所の床から次々に瓶ビールがでてくるのが不思議だったものだ。ウオッカなどを経て終宴に到るとビール+トマトジュース(濃いめレッドアイ)が好みだった。いつまでも延々と飲み続けたり、次の日の朝から飲むにはもってこいの飲み物だ。
「奥村真死ス」の報が関西に流れたときに友人の詩人たちから、つぎは倉本修だろうという話がでた。季村敏夫から電話がきて「気ぃつけなあかんよ」とか瀧克則や大西隆志からは「今度はクラちゃんかなぁ」とか冗談のように彼らは言うのだったが、ぼくはかなり前からバンカラ・デカダン・無頼とは無縁になっているし、そんな事故にはならないだろうに心配ご無用、といいたいところだ。砂子屋書房の高橋典子さんが「バンカラもデカダンも無頼も、時代遅れですよ」と言っていた。その通りですね高橋さん。
奥村くんとは生まれ年も月も同じ。数日かれが遅く生まれただけだ。ぼくが京都のギャラリー三条で個展したとき、会場まんなかの床にどかっと胡座をかいて酒を飲んでいた。普通ならつまみ出されるところだがソフトないい男ぶりであったので、画廊にも観客にも抵抗なく受け容れられていた。そんな時かれの周りに俗物は一人として在ない感じがした。不思議な男である。その折の写真をみるとニヤリ、ニヒルな笑い顔である。
どういう訳だか…その時の水彩画は売れに売れた。初日に写真家の宮内勝さんが不意に訪れて絵の価挌を全部決めてくれ、かれ自身一点買い上げてくれた。不思議な出来事だったが、これもオクムラ効果だったのかも知れない。後にその絵は山中智恵子さんの『鶺鴒界(せきれいかい)』カバー装画に使うことになり東京で宮内さんに会って貸し出ししてもらった経緯がある。
奥村くんの死については、田村さんの詩にあるように「ひともと心宮にねじりこむよう」に皆聞いた。詩集『忌臭祓い』の帯文は佐々木幹郎さん跋文から、田村さんが選んだ。ヘッドコピーは奥村君の詩『栗名月』から「みんな廃めちまえ と欠けた月」続けて[奥村真は都会の路地の片隅にある八百屋の二階に住んでおり、職業は? と聞けば、「渡りのバーテン」と答える。ロシア語を愛し、つねに酒瓶 を手元から離さない。酔っぱらっては陋巷に窮死することが夢であると語る。(佐々木幹郎)]そういえばいつも栓抜きを持ち歩いていたっけ…。その通りの死にようだった。
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